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【研究ノート】
『蝴蝶夢』再読
−民俗学からのアプローチ−
上 田 望
一
元の関漢卿作とされる『包待制三勘蝴蝶夢』雑劇(1)は,従来,暗黒の元代社会が投影された現実主義の作品として評価されることがほとんどであった。しかし,ここ数年,元朝の政治,社会像についての見直しが始まり(2),また関漢卿研究に関しても,現実主義一辺倒の研究手法に反省の声があがり始めており(3),元代研究のパラダイムの転換が起こりつつあるように思われる。小論では『蝴蝶夢』を現実主義の作品として理解するのがふさわしいのかどうか,従来の「読み」に再検証を加え,作品の周辺にあったと考えられる目連戯や民間信仰をメタテクストとして利用しながら,そのモティーフや構造について考察していきたい。
二
最初にまず『蝴蝶夢』の梗概を記せば次のようである。
中牟県の人,王老人が妻(王母)と三人の息子(長男王大,次男王二,三男王三)を引き連れて登場し,子供たちが学問しかせず,農作業を手伝わないのを嘆く。子供たちはそれぞれ挙業で身を立てることを誓う。(楔子)
皇親を自称する葛彪は通りでぶつかった王老人に暴行を加えて死に至らしめる。息子たちは葛彪を捕まえにいき,誤って葛彪を死なせてしまう。逮捕された三人は中牟県から開封府に送られ,開封府尹であった包拯の裁きを受けることになる。(第1折)
包拯は酸棗県から護送されてきた馬泥棒の趙頑驢に死刑の判決を下した後,うたた寝をして不思議な夢を見る。それは小さな蝶々がクモの巣にかかると大きな蝶が飛んできてその蝶を救い,また別の小さな蝶がクモの巣にかかるとまた大きな蝶がそれを救うが,三匹目の蝶がクモの巣にかかったとき,大きな蝶はこれを救わずにどこかへ飛び去ってしまうというものであった。王兄弟の裁きが始まると,包拯は彼らを拷問にかけ,主犯が誰であるか自白させようとするばかりか,兄弟の名前がけしからんと難癖をつける。しかし兄弟は口々に自分が手を下したと主張するため,包拯は王大に罪を償わせることにするが,王母は包拯を罵り,王大は孝行息子だからと反対する。そこで王二の命で償わせようとすると,これまた王二は家計を切り盛りしていく子だからと反対され,それではと王三に罪を償わすことにする。これについて王母が異議を申し立てないのをみて,包拯は王三が養子なのではないかと疑念を抱くが,問いただすと王大と王二は前妻の子供で,王三こそが王母の実子であることが明らかになる。包拯は王母の徳に感じ入り,またこの事件がさきほど見た夢とも符合していることに気づくが三兄弟を死刑囚牢送りにする。(第2折)
王母は街中をさまよって物乞いをし,死刑囚牢に子供たちをたずねる。獄卒の張千に賄賂をせびられた王母は,ぼろの衣服を差しだそうとするも拒絶されるが,どうにか中に入れてもらい,王大,王二に食事を与える。王大,王二はその場で釈放され,王母は後ろ髪を引かれる思いで王三を残して王大たちと立ち去る。翌日,盆吊という処刑法で死ぬ運命にあることを知った王三は,激しい恨みと憤りの歌をうたう。(第3折)
翌日,王大,王二は王三の遺体を引き取りに出かけ,王母は一人城外の墓地へ火葬用の薪をもって先に赴く。王大,王二が担いできた死体を王三のものと思い,悲しむ王母。しかしそこに現れたのは王三で,王母は幽霊ではないかと疑いびっくりするが,包拯が趙頑驢を身代わりに盆吊死に処し,自分の命を救ってくれたのだと真相を聞かされて納得し,母子団円となる。そこに包拯も登場し,王母は賢徳夫人に封ぜられ,王大,王二には官職が与えられ,王三は中牟県令に任ぜられることを告げて一件落着となる。(第4折)
従前の研究によってこの作品の主題及び評価のポイントをまとめるとおよそ次の五点になるであろう。
@元代の「権豪」の横暴を暴露し,彼らに立ち向かう一家の闘争とそれを助 ける清官包拯の活躍(4)
A元代,悲惨な境遇に置かれていた読書人一家を襲った悲劇(5)
B王母の家族愛と崇高な犠牲精神(6)
C包拯の立場から見た「法」と「孝」という二つの「王法」の対立と葛藤(7)
D民間の口語を取り入れた,生気あふれる言い回しと場面が次々に展開する 緊密な構成(8)
このうち,多くの論稿の中で言及されているのが現実主義の視点からの@とAであり,これにBを加えれば,非常に感動的な「テクスト」が織りなされる筈なのだが,筆者はどこかおさまりの悪いものを感じる。その原因の一つはこの作品に通底する滑稽さにある。深刻なテーマを扱う悲劇のように見えて,『蝴蝶夢』には意外に滑稽な対話が多い。例えば第3折の白でのやりとり,「(張千言う)牢の監督官が来たのかもしれない。いま戸を開けますよ。どなたが鈴の綱を引っ張られたのかな?/(正旦言う)私です。/(張,なぐる仕草)くそばばあ! ここはおまえの家か? 何しに来たんだ!?」はどつき漫才を思わせる。また第3折の王三の辞世となる筈の唱詞も,これをレーゼドラマとして読むならば,それまで始終軽薄な言辞を弄していた王三が急に人が変わったように真剣に自分の不幸を嘆き始め,最後に彼の発する恨みの文句,「張千,おまえのお袋を姦るからまってろよ!」は読む者をどきっとさせるが,この直前の王三と張千のふざけたやりとりの流れからみれば,これは舞台上の演出では汚い罵詈語を吐いて観客の笑いをとるところだったかもしれず,感動の名作として読むにはどこか違和感があるのである。
そしてもう一つの違和感は,この作品が「宋代のことを借りて,元代社会の暗黒を暴露する」ものとされてきたにも関わらず,これを現実主義の作品として読む根拠が乏しい点にある。そこで従来指摘されてきた,あるいは指摘されていなかったいくつかの点について,本当にそれが元朝独特の社会現象を反映しているのかどうか検証してみることにしたい。
@王三を死刑に処する根拠
すでに梗概で紹介したように,王兄弟は父親の敵を討ったわけであるが,包拯は葛彪が先に王老人を殺めたことについては一切取り合わず,彼らが葛彪を殺したことだけを問題にし,主犯が誰かを明らかにするため三兄弟を拷問にかけ,最終的に王三に死刑の判決を下す。この腑に落ちない審判については次の二つの説明がなされている。
李春祥氏は,『元史・刑法志四』:「諸人殺死其父,子殴之死者,不坐」を根拠に,彼らは本来罪を問われない筈だが,葛彪は「皇親国戚」であることから,皇帝の顔をたてるために包拯は誰かを処刑しなければならなかったのだと解釈する(9)。一方,厳敦易氏などは,葛彪をモンゴル人と考える点は同じであるが(ただし,厳氏は,葛彪は平民のモンゴル人だが,彼は支配者の皇帝と同じ民族であるため,「皇親」と称していると考える),元代の『大元通制條格』のモンゴル人と漢人の争いに関する二条を拠り所に,「ここではモンゴルが漢人を殴打しても「仕返しをする」ことはできず,役所に訴えることができるだけである。もし違反すれば,つまり「仕返しをすれば」,厳しく罰せられることになる」から葛彪が王老人を死なせた件については包拯は裁判で取り上げられなかったのであろうとし,この芝居の筋立てにあらはなく現実の情況を暴露しているものと断ずる(10)。
いずれの説にせよ,この物語の背景に元代の社会現実を想定し,裏付けのために元代の法律を持ち出してきているのだが,ここに反映されているのは,おそらくいつの時代にも存在したある種の「階級闘争」ではないのだろうか。たまたま元朝はモンゴル人の特権を法律に明文化しているからといって,それをこの葛彪の横暴な振る舞いに結びつけるのはいささか強引に思われる。もし葛彪が本当にモンゴル人だったのであれば,王母たちが漢人はモンゴル人に勝手に仕返しできないことを知らない筈はない。どんなに元朝の刑法で説明しようとしても,どこかに矛盾が生じるのは避けられないのである。
筆者の見方では,作中の葛彪の形象は類型化された悪漢に過ぎない。しかも唱詞,科白がほとんどなく,『魯斎郎』,『生金閣』など他の雑劇の悪役と比べても非常に影が薄く,彼からモンゴル人乃至モンゴルの統治者の影を読みとるのは難しいと思われる。結局,葛彪はこの作品の中では生彩を欠く登場人物包拯,趙頑驢などと同じく,ストーリーを展開させていくのに必要最低限の役回りを演じている存在に過ぎないのではないだろうか。
A馬泥棒は死刑求刑がふさわしいのかどうか
趙頑驢は馬を盗んだ罪で死刑になること,すでに述べた通りである。王三の身代わりのように書かれているが,第2折の公判の場面で死刑囚牢送りを宣告されているので,おそらく身代わりにならずとも処刑されたのだと思われる。この処分についても議論が分かれるところで,厳敦易氏や李漢秋氏は,『新元史・刑法志・刑律上』:「盜馬一二匹者即論死」を拠り所に,死刑は法律的に見て正しいとする(11)。一方,李春祥氏は『元史・刑法志・三』:「盜馬者,初犯為首八十七,徒二年,為從七十七,徒一年半.再犯加等,罪止一百七,出軍」によって死罪は不当とする(12)。また呉海航氏は,大蒙古国時期,モンゴル人は馬泥棒を普通の窃盗と同じとは考えなかったため,これに対して「偸一罰九」,ひどい場合には「女児代償」の方法をもって,それもできない場合には死刑を適用することで処罰を行い,元朝に入ってからも,この法律規定は引き続き有効であったとする(13)。ただし,だからといって元朝の刑罰が過酷であったということにはならない。呉氏が指摘するように『宋刑統』の正文規定は『唐律』と同じで「官・民の牛馬を盗みし者は,二年半の徒刑」となっているが,それに新たに加えられた内容は「如盗殺馬牛,頭首処死,従者減一等」と重い処分になっている。
要するに,宋でも元でも馬泥棒は死刑となる可能性があったわけであり,趙頑驢が馬泥棒で死刑になることをもって元の時代の反映とみることはできないし,況やこれを元代だけの過酷な処罰と見るのは誤りであろう。
B処刑法
馬泥棒の趙頑驢が処刑されたやり方「盆吊死」は宋代の処刑法であり,元代では死刑は「斬」か「陵遅処死」(『元史・刑法志・名例』の「五刑」)であった。しかし,唱詞(第3折・朝天子)では「到来日一刀両断」(明日になれば一刀両断)と言っており,処刑法について齟齬が生じている。これはおそらく趙頑驢を王三の身代わりにするためには公開処刑で「斬」にするわけにはいかないという演出上の都合から来るものであろう。
C孝子節婦の称揚
第4折の掉尾で王母一家はその徳をたたえられ,王母は賢徳夫人に,息子たちもそれぞれ官職を授与される。だが史衛民氏が「元が“義夫,節婦,孝子,順孫”などの表彰を行い始めたのは成宗の時代で,以後詔書の中にこれらの言葉が出てくるようになる」と指摘しているように(14),元朝政府がこうした伝統的な道徳倫理観念を政策に反映させ始めたのは元代中期以降で,それは『大元通制條格』,『元史』,『新元史』の「孝子」「節婦」「義夫」などに関する言説を見ても裏付けられる。関漢卿の在世中はおそらくこうした道徳は否定されていた筈であり,ここでの描写は宋代の事に基づくのであろう。「賢徳夫人」なる称呼が正史に見えるのは『宋史』巻480「吳越錢俶伝」に開寶5年のこととして「封其妻孫氏為賢コ順穆夫人」とあるのが最初であるが,元の正史にはこの言葉は現れない。
ただ,最後の封贈の結末と似たような表現は他の雑劇にも見え,例えば『陳母教子』では「陳婆婆賢徳夫人」とあり,『合同文字』では「聖天子撫世安民,尤加意孝子順孫,,張秉彝本処県令,妻并贈賢徳夫人」又「劉安住力行孝道,賜進士冠帯栄身」とあるので,『蝴蝶夢』のそれもご祝儀を当て込んで紋切り型のお目出度い表現を嵌め込んだだけなのかもしれない。
D埋葬法
第4折の科白に「将着柴火焼埋孩児」(薪を持って子供を火葬しにいく)とあり,また「新水令」に「拾得粗坌坌幾根柴」(不揃いの薪を何本か拾って)とあるので,おそらく王母は王三の遺体を火葬にするつもりであったのだろう。元代では漢族は土葬が主流であったが,北方では仏教や契丹・女真族の風習の影響を受け,大都でも火葬が広く行われていたという(15)。それゆえおそらくこれは元代の北方の葬礼を反映しているとみてよいであろう。
E酸棗県
馬泥棒の趙頑驢は酸棗県から開封府に護送されてくることになっているが,この酸棗県については厳敦易氏にやや詳しい考証があり(16),元明以降,酸棗県なる名称はないが,『宋史・地理志』には開封府の下に延津県があり,その注に「旧酸棗県,政和七年改」とあることから,ここで敢えて宋代の地名が使われているのは作者が意図的に本当の時代を隠し,宋朝故事にみせかけようとしたのだと解釈する。しかし,古い地名がのちのちまで使われることはよくあることであり,作者がそこまで細心の注意を払ってわざわざこの地名を選んだのかどうか疑問は残る。
以上,『蝴蝶夢』が元朝の現実を反映させているかどうか考証を試みてみたが,結論としては宋と元の現実がテクストの中で混淆しており,必ずしも元朝の実状だけを反映しているわけではない。考えるに,従来は都合のよい部分だけを「暗黒の元代」というコンテクストで現実主義の視点から読もうとしてきたのではないか。この作品の負の描写のみを元朝の政治や社会制度に帰するのは公平性を欠く見方と言わざるをえない(17)。
『蝴蝶夢』の「読み」に行き過ぎた現実主義のバイアスがかかってしまった原因,あるいはそのような「読み」を助長してしまった要因は,(@ 元雑劇自体が五四以降,専ら現実主義の視点で読まれてきた (A 作者関漢卿が人民作家に祭り上げられ,彼の作品群が現実主義という限られた面からしか評価されなくなった(18) (B 清官包公としてのイメージが元以降どんどん蓄積されていったため「清官包拯」のコードでこの作品も解釈された(19),という三点が考えられる。この三つの要因の根底には「暗黒の元代」というコンテクストが横たわっているが,『蝴蝶夢』は運悪くというべきか,「関漢卿」が書いた「清官包公」の「元雑劇」で三つを兼ね揃えたテクストであり,それがこの作品に対する視点を現実主義にほぼ固定化してしまったのであろう。
三
では「暗黒の元代」というコンテクストを使わず,今までの「読み」をリセットして『蝴蝶夢』を読み直すとしたらどのような視点が有効であろうか。小論では目連戯をメタテクストとしてこの作品を分析を試みることにする。
(1)目連戯と地獄巡り
『蝴蝶夢』では第2折と第3折で「下獄」と「拷問」のシーンがたっぷり描かれる。公案劇には拷問はほとんど不可欠であり,このような描写があること自体おかしいものではないが,『蝴蝶夢』のそれは特に念入りで,「血」や「地獄」といった言葉も繰り返し用いられる。結論から先にいうと,この『蝴蝶夢』は目連戯の影響下に成立したのではないかと考えられる。『蝴蝶夢』では他の元雑劇にはあまり見られない,宗教儀礼と関わりのある字句「紙銭」(5個所),「七修斎」(1個所),「宗祀」(1個所),「経懺」(1個所)などがしばしば出てくるだけでなく(20),目連戯と共通する字句が多く目に付き(21),目連戯と同じモティーフ,構造を有していると見られるからである。
目連戯と共通する表現を具体的に見てみると,
【經懺】(第3折・白)
仏教または道教を信ずる者が誦経し,供養する意味で,ここでは王二が「我有一本《孟子》賣了替父親做些經懺」(私の『孟子』を売ってお父さんのためにお経をあげてください)と述べているが,目連戯でも『東陽目連戯』の「挑経挑母」など地獄で母親を救うために目連が経をあげる場面は欠かせないものとなっている。
【物乞い】(第3折・正宮端正好)
王母は開封府の街を物乞いをして回るが,目連戯でも,『超輪本目連』の第7齣「打癱」,第12齣「搭罐」,『目連全会』の「打罐」などに物乞いのシーンがある。
【王大,王二へ食事を与える】(第3折・笑和尚)
「探獄」の場面で王母は王大,王二にだけ食事を与え,王三を無視する。ここの場面はいわゆる「施餓鬼」による鎮魂儀礼を象徴しているのではないかと考えられる。例えば『目連全会』「賑孤」の「想古往今来,無祀孤魂,趁此今宵,今宵来受甘露味」(古今の祀られることのない孤魂よ,今宵ここに来て甘露の味を受けるがよい)というような孤魂野鬼を呼び出して施しをする場面が盛り込まれている(22)。『蝴蝶夢』の場合も,王大,王二は王家の直系男子である王三が刑死すれば将来的に孤魂野鬼化する恐れがあり,王母はまず彼らを先に救済しなければならなかったのであろう。
【衣服】(第3折・倘秀才)
牢獄に息子たちを訪ねた王母は,獄卒の張千に何の付け届けもないのかと文句を言われて,自分のぼろの衣服を差しだそうとするが拒否される。衣服には宗教的な意味があり,魂のとりつくもの,あるいは魂そのものとされている(23)。管見の限りでは目連戯でこの衣服のことを取り上げているものは見あたらないが,敦煌で発見された「大目乾連冥間救母変文」(24)では「即至奈河之上,見無数罪人,脱衣掛在樹上」(奈河のほとりにたどり着くと,無数の罪人たちが木に衣を掛けているのが目に入りました)とある。日本では三途の川といえばすぐに「奪衣婆」と「懸衣翁」が思い浮かぶが,婆が亡者の衣をはぎ取り,翁がそれを「懸衣樹」に懸けて亡者の罪の重さを量るという話は純日本製の経典『地蔵十王経』に基づいたものとされている(25)。ただし,変文の中でも亡者が衣を脱いで木に掛けている描写があるように,脱いだ衣で罪の重さを量るという発想自体は中国伝来のものだったかもしれない。これは日中の仏教史研究に関わる大きな問題なのでこれ以上の深入りはやめておくが,王母が衣服を差し出す行為は,地獄に入り奈河を渡るための何らかの手続きの象徴ではないだろうか。
【十月懐耽,乳哺三年】(第3折・上小楼)
王母は「探獄」の場面で「十月懐耽,乳哺三年」(十ヶ月身ごもり,三年間乳を与える)と妊娠出産から子育てまでの苦労を回顧してうたうが,この句は『神奴児』,『灰闌記』,『趙氏孤児』など他の雑劇にも見られ,母親の子供への愛情を表現する際の常套句であったようである。もっとも遡ればこの句は敦煌変文の「父母恩重経講経文」にも散見される。一部の目連戯ではこの部分が更に引き延ばされ,「十月懐胎歌」となっている。例えば,『紹興救母記』8本96の「三橋」では劉氏が「人生莫作婦人身」(女の身には生まれることなかれ)と歌い出し,受胎から出産,哺育の過程での女性の辛さを滔々と歌い上げ,最後にまた「人生莫作婦人身」を繰り返して締め括っている。この歌を聞いた冥土の判官はいたく感動し,劉氏の刑を減じていることから,この歌には女性の救済を求めるメッセージが託されているのであろう。
【血と孝】(第1,2,4折)
『蝴蝶夢』の中では他の雑劇と違って「血」(7個所)「孝」(6個所)という言葉が繰り返し使われ,しかも不思議なことにある曲に「血」が出てくると次の曲で「孝」が用いられることが多い。目連戯では,いわゆる血の池地獄に陥った母親を救い出すために目連が「孝子経」を読む場面があり,『東陽目連戯』「挑経挑母」には「目連誓成孝子人,念了千遍孝子経」(目連は孝子になると誓い,孝子経を千遍念じました)とある。これについてはまだ想像の域を出ないが,目連戯や『蝴蝶夢』では「孝」は「血」のメタファーだったのではないだろうか。
【望鄠台】(第4折・駐馬聴)
王母は「把那殺人賊推下望郷台」(あの人殺しを望郷台に突き出したい)とうたうが,この「望郷台」とは地獄の第五殿にあり,死者の霊魂が故郷を眺めることのできる場所で,閻羅天子がこれを築いたとされる。目連戯の中でもこの「望郷台」から母親が故郷を振り返り見るシーンは有名で,明の鄭之珍が書いた『目連救母行孝戯文』を初め,現在眼にすることのできるほとんどの目連戯にある。
【七修斎】(第4折・風入松)
王母は王三を幽霊と見間違え,「我与你収拾疊七修斎」(おまえのために「七修斎」を設けますからね)とうたう。「七修斎」は「累七斎」,「斎七」,「做七」などとも言い,人の死後,七度営まれる仏事のことである。仏教では人の死後,七日のうちは仮死状態で,遺族がその間に追善供養を行えば生き返る可能性があると考えられ,七日で生き返らなければまた七日ごとに四十九日まで七回供養を続け,それで生き返らなかったとしても成仏できると信じられていた(26)。目連戯でも『超輪本目連』末本第2冊第1齣「罵雞」に劉氏がうたう唱詞に「若是人家孝順子,做斎醮七啟道場」(孝行息子であったらば「七修斎」の供養をしてくれる)とある。
【迷魂寨】(第4折・尾煞)
「意識を失った迷いの世界」という意味で,人を惑わせるわなをたとえる「迷魂路」「迷魂陣」も同系統の言葉であろう。目連戯では『超輪本目連』や『目連全会』「勧姐」に「従今後看破了迷魂路」「従今看破迷魂陣」(迷いの世界を超越して)とある。またこの言葉は,転生する魂に過去の一切を忘れさせるために地獄で孟婆神が飲ませる薬湯「迷魂湯」をも連想させる。王家が封贈を受け社会的に復活するため迷魂湯を飲むことは不可欠な通過儀礼だったのであり,だからこそ第4折の最後の唱詞に「黒漫漫打出迷魂寨」(暗い,迷いの世界から抜け出て)という句が出てくるのであろう。目連戯に「迷魂湯」という言葉は見えないが,『浙江省東陽市馬宅鎮孔村漢人的目連戯』(以下,『東陽目連戯』)には孟婆神が茶湯を飲ませることが見え,また目連の母劉氏が「龍汗」を飲んで昏倒し,意識を取り戻した後改心して大団円となる話がある。
【悽惶債】(第4折・尾煞)
「不甫能還了悽惶債,黒漫漫打出迷魂寨」(やっとのことで悲しみの付けを返済し,暗い,迷いの世界から抜け出て)とあり,どうしてここに急に「悽惶」という言葉が出てくるのか少し奇異な感じがするが,『超輪本目連』末本第2冊第1齣「罵雞」に「豈知娘到陰世裏,一路悽惶没主張」(あの世にいった母親が道中惨めでどうしようもないことをどうして知ろう)とあるように,冥界=悽惶なのであろう。
【枯樹花開】(第4折・水仙子)
最後から二番目の歌で「更勝如枯樹花開」(枯れ木に花が咲くに勝る)という表現が出てくるが,「枯れ木に花が咲く」という表現は『三国志・魏書』卷21「劉傅傳」に見えるほか,宋の李石『続博物志』巻7に枯れ木に咲いた花とその汁を食べた人間が登仙した故事を載せる。目連戯でも『超輪本目連』末本第2冊第4齣「第五殿」で「嘆当初枉在人間,又如枯木花再開,閻君恩徳赴天台」(間違って人間界に生まれ落ちたのを嘆いておりましたが,また枯れ木に花が咲いたように,閻君の恩徳で天台に赴くことができ)とあるように,人間が転機を得て再生することを象徴しており,それゆえに第4折の最後になってこの表現が出てきたのであろう。ちなみに民間信仰では地獄の第五殿を掌る閻羅天子は歴代の著名な人物がこれを勤めたことになっているが,包拯もその一人である(27)。
冥界裁判の考え方が早くに中国で成立していたことからもわかるように,俗世の法廷を地獄になぞらえる発想は珍しいものではない。『蝴蝶夢』の,特に第2折,第3折を目連戯と照らし合わせてみれば,開封府の役所と死刑囚牢の描写が地獄を象徴し,王母や三兄弟がその中で辛酸を嘗める様は冥界の残虐な刑罰と地獄巡りを喩えていることはほぼ間違いないであろう。包拯は「昼は現世を裁き,夜は冥界を裁く」と民間で広く信じられ,元雑劇でも包拯の登場詩に裁きの場の厳粛な様子を喩えて「閻王生死殿,東岳摂魂台」とうたっているように,開封府の役所は陰間と陽間を結ぶブラックホールのような場所であった。開封府に送られた王兄弟はそこから「活地獄」へと落ち,彼らを救い出すために王母も地獄巡りの旅に出立するのである。
(2)王三の死と再生
三男の王三は,『蝴蝶夢』という作品の中で王母に次いで重要な位置を占めている存在である。まず王三が他の兄弟と異なるのはそのふざけた言動である。これは王三の役柄が『元曲選』本では「丑」となっている(『古名家雑劇』本では「末」)ことと関わりがあるかもしれないが,三兄弟が登場する関漢卿の『陳母教子』でも「末」の三男は軽い性格なので,これは元雑劇における三男坊の共通する性格なのかもしれない(28)。
そして王三のみが実子ということで実母から見捨てられ,他の兄弟よりも苦汁を飲まされるが,最終的には王三だけが実質的なポスト「中牟県令」を授かり,故郷に錦を飾ることになる。母親が実子を犠牲にして生さぬ仲の子を救おうとする話は,『趙氏孤児』や『救孝子』など他の雑劇にも見えるが,『蝴蝶夢』の話柄は『曲海總目提要』巻1「蝴蝶夢」条で指摘されているように『列女伝』に見える斉宣王時の二児の母の故事が基になっていると考えられる。しかし『蝴蝶夢』はこの封建道徳の物語の下に,「生と死」あるいは「死と再生」のモティーフが隠れているのではないだろうか(29)。
筆者は,この芝居の中で,王三が下獄し墓場から復活するまでの物語は一人の人間の受胎から出産までのプロセスを象徴的に表しているのではないかと見ている。
まず冒頭の楔子で王三は「我小時看見俺爺在上頭,俺娘在底下,一同牀上睡覚来」(僕は幼いとき,お父さんが上,お母さんが下になって一緒にベッドで休んでいるのを見ました)というダーティジョークを飛ばすが,これは彼が「性」に関わる存在であり,受胎を暗示しているのではないだろうか。
次に,『蝴蝶夢』では「血」という言葉が繰り返し用いられ,また第3折の「探獄」の場面で王母が「十月懐耽」の歌をうたっていることなどから,目連戯と血の池地獄に関わりがあるのではないかということは既に述べた通りだが,近世中国では女性が月経もしくは出産による出血で地神を汚すが故に罪深い存在で,死ぬと全ての女性が血の池地獄に落ちるという一種の女性不浄観が民間に根強くあり(30),この考えに基づけば,血の池と化した牢獄に母の胎内のイメージをだぶらせることはそう奇異な発想ではないだろう。このとき,獄中にある王三は,母の胎内で仮死状態になっている筈である。
そして第4折の前半は出産=再生のシーンである。「夜行船」で,王母は血まみれの躯を見て,「我与你荒解下麻縄,急鬆開衣帯」(あわてて麻縄をはずし,服と帯をゆるめて)とあわてて蘇生させようとする。麻縄は罪人を引っ捕らえるのに必須のアイテムで,目連戯の中でも冥土の使いが麻縄と鉄索を持って劉氏を捕まえにいくが,ここでは「麻縄」と「衣帯」は生まれたばかりの血にまみれた胎児に巻き付くへその緒と羊膜の象徴と読みたい。そして次の歌「挂玉鉤」の「我与你高阜處招魂魄」(高い丘で魂を呼び寄せる)は,死者の魂を高いところに登って呼び戻そうとする葬礼の一種であるが,新生児に息をさせようという試みを象徴しているのではないだろうか。
また王三が復活する場所にも注目したい。墓地はもともと陰の気が濃いところであるため,日当たりのよい斜面に作られることが多いが,彼は「陰丘」である「墓場」から外界に出て復活を遂げるのである。
王三が疑似的にであれ,死刑に処せられたのは,封建道徳の犠牲という側面があることは否定しないが,彼は王母の実子であるからこそ,「出産」あるいは「死と再生」という通過儀礼を経験しなければならなかったのである。
四
以上,この『蝴蝶夢』という作品の中に,目連戯と同じ,地獄巡りの構造が隠されていること,そして三男王三の苦難の描写には実は「生と死」あるいは「死と再生」のモティーフが潜んでいたことを見てきた。そしてこの「下獄」と「拷問」の場面は同時に,王家にとってのイニシエーションの機能を果たしているのではないかと考えられる(31)。貧乏学生である彼らは「下獄」と「拷問」で社会的に抹殺され,実際に作品の中でも王大,王二は救済されるべき餓鬼,王三も幽霊として描かれており,これは彼らが疑似的に死んだことを物語っていよう。また第4折の最後から二番目の歌「水仙子」で「受徹了牢獄災,苦尽甘来」とあるが,彼らは今回の事件を社会悪と見なすのではなく,一種の災難ととらえ(勿論ここでは韻を踏むために「災」という字を選んだとも考えられるが),「冬来たりなば春遠からじ」という素朴な陰陽循環論で彼らの「死から再生」のプロセスを理解している。そして最後の歌辞「鴛鴦煞」に「昏騰騰打出迷魂寨」とあるように,前世の記憶を忘れて再生し,しかるべき官職を得て社会的な復活を遂げることから,『蝴蝶夢』は男子の立身出世物語とも読むことが可能である。
田仲一成氏は中国演劇の構成上の形式について「この成人式を前にした苦行は少年としての死と成人としての再生・復活というプロセスを劇的に演出しているといえる。劇中人物の悲運と苦闘および勝利という劇の構造上の形式はこの若者が成人の資格を勝ちとる苦難のプロセスの延長上に成立した形式である」と述べておられるが(32),『蝴蝶夢』は若者のイニシエーションという点において演劇の典型的な構造を有する作品であるといえよう。
「子の物語」がこの作品の縦糸であるとしたら,横糸は「母(女)の物語」である。
継子のために実子を見捨てる崇高な自己犠牲精神,そして子供への愛情と心理的葛藤にスポットを当てた「読み」は,この世に継子いじめが無くならない限りなくなることはないであろう。
しかし,王母はただ愛情ゆえに子供を救いに「地獄巡り」を敢行したのであろうか。王母が作中で図らずも垣間見せる「不過是一人處死,須断不了王家宗祀,且不致滅門絶戸了俺一家児」(一人が処刑されるだけのこと,王家の宗祀が絶えるわけでもなく,お家断絶になるでもなし)という冷徹な一面は,王三の「正是三家廝靠」(一家三人はみな僕を頼みとす)という科白と相俟って,直系男性の血筋が永続していくことに重きを置く伝統中国の「血統の力学」の中で彼女たちが生きていることを改めて我々に認識させる。王母もやはり宗族の一員であった。ここでもう一度目連戯を思い出していただきたい。目連自身は解脱した存在であるが,「孝」という倫理道徳のために地獄へ母親を救いに行く。しかし王母は目連とは置かれている状況が異なる。彼女は子供を救い出さない限り,彼女も跡継ぎを失ったということで死後,孤魂野鬼と化する「救われぬ衆生」なのである。彼女が息子を助けたのは,彼女が未成年の守護者であったからということもあるが,彼女自身のためでもあった筈であり,この作品から「婦徳」や「母性愛」を過剰に汲み取るのは慎むべきであろう。そして『蝴蝶夢』も目連戯も「子の物語」と「母(女)の物語」の糸が織り上げる結末は当然,「母子団円」である。(完)
【注】
(1)筆者は2001年1月よりUniversity of California,Berkeley, Department of East LanguagesのStephen H. West教授のクラス「Reading in Yuan Drama」 に出席することを許され,同教授の『蝴蝶夢』講解を受ける機会を得た。ま た同教授には『蝴蝶夢』についての専論及び英訳があり,今回拙文をまとめ るに際していろいろとご指導いただいた。ここに謝意を表したい。国外に滞 在しているため,日本語・中国語の研究文献で眼を通せなかったものもあり, 「研究ノート」というかたちで発表させていただくことにした。諸先生のご 叱正,ご示教をお願い申し上げる次第である。なお,『蝴蝶夢』のテキストに は『古名家雑劇』本と『元曲選』本の二つがあるが,引用に際しては特に断 らない限り『古名家雑劇』本に拠ることとする。
(2)杉山正明氏は,今までのモンゴルに対する偏ったイメージと,モンゴル について語られる際に必ず出てくる「科挙の停止,四階級制の確立,そして マイナス・エネルギーの発露としての庶民文化の興隆」という常識が多くの 問題を含むことを指摘している。杉山正明『クビライの挑戦 : モンゴル海上 帝国への道』(朝日新聞社, 1995.4)
(3)葉長海「関劇評価検討」(関漢卿国際学術研討会編輯委員会編輯『関漢卿 国際学術研討会論文集』所収,国立台湾大学文学院,
1994.1)「五 熱潮中之 誤点」参照。
(4)厳敦易『元劇斟戯』(中華書局,1960)「四十 蝴蝶夢」,李春祥編『元代 包公戯曲選注』」(中州書画社, 1983)「蝴蝶夢前言」,鍾林斌『関漢卿戯劇論 稿』(陝西人民出版社, 1986)「関漢卿的悲劇意識」,李漢秋「蝴蝶夢簡析」(呉 白?主編『古代包公戯選』所収,黄山書社, 1994.1),徐燕平「蝴蝶夢前言」 (徐燕平注『元雑劇公案巻』所収, 華夏出版社, 2000.1)など。
(5)注(4)前掲厳書, 注(4)前掲鍾書「悲劇向喜劇転化以及戯劇結局的 処理」,注(4)前掲李漢秋論文など
(6)注(4)前掲鍾書「関漢卿是怎様展開悲劇衝突的」,注(4)前掲徐論文 など。
(7)法と倫理の対立についてはStephen H.West「Law and Ethics,Appearance and Actualith in Rescriptor in Waiting Pao Thrice Investigates the Butterfly Dream」(関漢卿国際学術研討会編輯委員会編輯『関漢卿国際学術 研討会論文集』所収,国立台湾大学文学院, 1994.1),幺書儀『元人雑劇与元 代社会』(北京大学出版社, 1997.6)「公案劇与元代的“法”」などを参照した。 West論文はこの法と倫理の衝突が『元曲選』本の改変にまで影響を及ぼした と指摘している。
(8)吉川幸次郎『元雑劇研究』(岩波書店, 1948.3)484,485,500頁。注(4) 前掲徐論文。また,『蝴蝶夢』についてではないが,関漢卿の雑劇について田 中謙二氏は「・・・・・・関漢卿の戯曲がすぐれる点は,題材にあるのではない。 口語をみごとに駆使して躍動する歌詞と,四幕の雑劇形式を活かして,全く すきまのない緊密な構成にある」とする。田中謙二編『戯曲集 上』「解説」 (平凡社, 1970.11 中国古典文学大系第52巻)
(9)注(4)前掲李春祥論文を参照。
(10)注(4)前掲厳論文を参照。また鍾林斌氏も注(4)前掲書「関漢卿対 悲劇根源的探索」の中で自蒙思明『元代社会的階級制度』中華書局,1980) を引用し,死刑判決は正当であることを強調する。
(11)注(4)前掲厳論文,注(4)前掲李漢秋注『蝴蝶夢』第2折注釈Gを 参照。
(12)注(4)前掲李春祥論文を参照。
(13)呉海航『元代法文化研究』(北京師範大学出版社,2000.5)219〜222頁。
(14)史衛民『元代城市生活長巻−都市中的遊牧民』(湖南出版社,1996.9)「節, 孝等観念対蒙古人的影響」201頁。
(15)史衛民『元代社会生活史』(中国社会科学出版社, 1996.1)「漢族及其他 民族的喪葬習俗」を参照。
(16)注(4)前掲厳論文を参照。
(17)なお,筆者は一つのテクストがある程度,その当時の社会現実を基礎に できているという文学観を否定するものではなく,テクストを歴史的文脈に 置き直してコード解読の手がかりとする研究手法には共鳴するところがある。 ただ,元代に成立したテクストが,元の現実だけを反映しているとは限らな い。詩文のように一つの詩語にさまざまなイメージが重層的に積み重なって いくこともあれば,小説のように各時代のテクストが入れ子型の構造をとっ て組み込まれているケースもあり,細心の注意を払って検討することが必要 であろう。
(18)関漢卿とその作品がどのように研究されてきたかについては,注(4) 前掲鍾書「関漢卿研究之歴史回顧」,曾永義「関漢卿研究及其展望」,注(3) 前掲葉論文(ともに『関漢卿国際学術研討会論文集』所収)などに詳しい。
(19)元雑劇における包拯のイメージについては岩城秀夫氏に「元の裁判劇に おける包拯の特殊性」(『中国戯曲演劇研究』所収 創文社, 1973.2)という 詳細な論考がある。岩城氏は包拯が最初に元曲に登場した関漢卿の作品『蝴 蝶夢』では有能な人物には描かれず,また他の裁判劇では包拯以外の人間を 裁判官を登場させていることから,「関漢卿は包拯のみを畏敬すべき裁判官と 考えているのではない。この作者にあっては,裁判官は事件の処理を担当す ればよく,人を選んではいない。それがまた元曲の姿でもあったろう」とし, 一方で時代が下るにつれて包拯の超人間的性格が濃厚となることを指摘する。
また岩城氏は,裁判劇に亡霊訴冤の場面が増えた理由について,視覚的な 効果という演出上の理由から説明するが,田仲一成氏は,「無名孤魂の鎮魂儀 礼が裁判のかたちをとることが構造的に要請されており,その形が包公劇を はじめとする元代の裁判劇を生み出したと推定できるのである」とする。田 仲一成『中国演劇史』(東京大学出版会, 1998.3)「第4章 元代演劇の形成」 130頁。
(20)『蝴蝶夢』とならんで宗教や祭祀と関わりのある用語が多いのは,筆者の 気がついたところでは関漢卿の『竇娥冤』であり,「血」(6個所),「孝」(6 個所),「紙銭」(2個所),「望郷台」(2個所),「超度」(1個所),「水陸大?」 (1個所)となっている。『蝴蝶夢』の作者が関漢卿であるかどうか,一部で は疑問ももたれているが,特殊な語彙の共通性という点からいえば,『竇娥冤』 を書いた同じ人物の手になるものとみてよいであろう。
(21)目連戯の諸テキストについては王秋桂主編『民俗曲芸叢書』(施合鄭民俗 文化基金会)を利用した。
黄文虎校訂『超輪本目連』(施合鄭民俗文化基金会,
1994.5)
劉禎校訂『莆仙戲目連救母』(施合鄭民俗文化基金会,
1994.5)
徐宏圖校訂『紹興救母記』(施合鄭民俗文化基金会,
1994.11)
徐宏圖著『浙江省東陽市馬宅鎭孔村漢人的目連戲』(施合鄭民俗文化基金会, 1995.3)
李平, 李昴校訂『目連全会』(施合鄭民俗文化基金会,
1995.10)
目連戯については多くの論考が出ているが,いくつかは徐宏圖, 王秋桂編 著『浙江省目連戲資料匯編』(施合鄭民俗文化基金会, 1994.11)に収められ ている。また目連戯の諸本の分化については,田仲一成「目連戯の地方的分 化とその背景」(『中国研究集刊』宿号,1994)に詳しい。
(22)田仲一成氏は目連戯全体が飢えた孤魂を救済する鎮魂演劇であると指摘 する。「目連の母は生前の罪のため子の目連の祭享が届かず,地獄をひきまわ され,孤魂悪霊と同じ運命に落ち込んでいる。また彼女の周辺にも大勢の飢 えた孤魂がいて目連がさしだす食べ物は孤魂にとられてしまう。したがって 目連は母を救うために母を含む周辺の孤魂群をまとめて救いださなくてはな らなくなり,結果として目連戯全体が大規模な孤魂鎮撫劇の様相を呈するに 至る」注(19)田仲前掲書「第4章 元代演劇の形成」130頁。
(23)小南一郎氏は「古代中国において衣服(特に死者が生前用いていたもの) が祖霊の依り代とされていたであろう」とする。小南一郎『中国の神話と物 語り: 古小説史の展開』(岩波書店, 1984.2)249頁参照。
(24)敦煌変文についての引用は,潘重規『敦煌変文集新書 上下』(中国文 化大学中文研究所敦煌学研究会, 1983.7-1984.1)による。
(25)澤田瑞穂『修訂 地獄変−中国の冥界説』(平河出版社, 1991.7)「地獄 の経典」を参照。
(26)史衛民氏は注(15)前掲書「漢族及其他民族的喪葬習俗」で元代では漢 族の間でこの七修斎が盛んに行われたと述べる。
(27)注(25)前掲澤田書「入冥譚」を参照。
(28)入谷仙介氏は,神話学者デュメジルの三機能説に基づき,猪八戒と沙悟 浄は第三の「冨と生産」の機能を体現しているとする。元雑劇の人物形象に ついては更に詳しい検討が必要であるが,王三の「性」や「出産」との関わ りはこれで説明できる可能性がある。また,ふざけた人間からまじめな人間 に変わっていく王三の形象には,物語の結末が近づくにつれて人間に成熟し ていくトリックスターの痕跡がかすかに残っているのかもしれない。入谷仙 介『「西遊記」の神話学−孫悟空の謎』(中央公論社, 1998.5)「祭司・戦士・ 生産者」「孫悟空と猪八戒」を参照。
(29)中国の小説における「死と再生」のモティーフに関しては,鈴木陽一「『西 遊記』における人物形象の再検討(2)−猪八戒と孫悟空」(『言語文化研究』 第1巻第1号,1981),小南一郎「李娃伝の構造」(『東方学報』第62冊,1990), 入谷仙介『「西遊記」の神話学−孫悟空の謎』(中央公論社, 1998.5)「『西遊 記』の根元テーマ」から大きな示唆を受けた。
(30)注(25)前掲澤田書「地獄の経典」を参照。
(31)通俗文学の中で農村共同体を離れた商人や儒生たちが悲惨な運命を辿る 話は少なくない。元雑劇の中にも農村共同体回帰の志向は垣間見られ,例え ば『救孝子』では老婦が息子たちに暗に帰農を勧めているほか,『蝴蝶夢』で も楔子で王老人が息子たちが農作業を手伝おうとしないと嘆いていることに ついては紹介した通りであり,彼らの今回の苦難はイニシエーションのほか に,共同体を離れた者に対する懲罰という意味合いもあったかもしれない。 ただし王兄弟にとって幸せだったのは彼らには倫理道徳を紐帯とするネット ワークがあったことであり,それがなかった趙頑驢は誰も救いの手をさしの べることなく死罪に処せられたのだとWest氏はいう。注(7)前掲West論文。
(32)注(19)前掲田仲書「第1章 演劇発生の構造」6〜7頁。