『東方學』第84輯(1992年7月)原載
 
明代における三國故事の通俗文藝についてー『風月錦嚢』所収『精選續編賽全家錦三國志大全』を手掛かりとしてー
上田 望
 
 
 「三國志」の物語が、中國の傳統社會の中で階層を問わず幅廣い支持を受けていたことは周知の通りである。「三國志」と言えば白話小説『三國演義』があまりにも有名であるが、いかに通俗小説が普及した明代とは言え、書物という高價な媒體を通じて三國の故事を知り得た者は極めて少數であった筈であり、大多數の文盲の大衆は、評話などの語り物や、村祭りで一年に何度か小屋掛される演劇によって、小説とは多少異なる物語を樂しんでいたと思われる。そのような藝能の中、小説『三國演義』の成立に直接・間接に影響を及ぼしたと考えられる元の『三國志平話』や雜劇については論じられることがあるが、『三國演義』の書かれた明代に一體どのような物語がどのように語られ、唱われてきたのかについては資料の制約もあり、近年まで殆ど觸れられることがなかった。しかし、『成化説唱詞話』の『花關索傳』や『三國志玉璽傳』などが次々に發見され、明代にも民間のレベルでは、やはり『三國演義』とは筋の異なる異色の藝能が存在していたことが明らかになってきた。小論では、自ら「詞話」と謳う『精選續編賽全家錦三國志大全』(以下、『大全』と略す)を取り上げ、形式・内容の兩面から考察を加えて『大全』の成立及びその有する意義を檢討し、明代の三國故事傳播の一形態を解明しようと試みるものである。
 
 
 
 『風月錦嚢』41巻(正編20巻・續編20巻・續補1巻)(1)は「汝水 雲崖 徐文昭編輯」(『新刊摘滙奇妙戲式全家錦嚢伯皆一巻』巻首署題)の元明雜劇南戲傳奇の選集である。徐文昭とはいかなる人物か知見がない。汝水は江西省東部の撫州地區(明代では撫州府)を流れる撫河の別称であり、「汝水」と冠するところから見ると、編者は江西撫州府に縁のある人間であったのであろう。出版元については、「書林詹氏進賢堂梓行」(『全家錦嚢伯皆一巻』巻首署題)・「書林詹氏仁智齋梓」(『新刊摘奇續編賽全家錦大全雙蘭花記巻之一』巻首署題)とある。また、巻末の木記に「嘉靖癸丑歳秋月詹氏進賢堂重刊」とあり、嘉靖32(1533)年に上梓されたことがわかる。『明代版刻綜錄』によると、詹氏進賢堂は福建建陽の書肆で、明の弘治9年から萬暦35年までの出版活動が確認できる。詹氏の一族は元の時代から建陽で刻書業を営んでおり、閩書林の名門として知られている。『風月錦嚢』の版式は建陽の書物に散見される上圖下文が主で、下欄は半葉13行×20字である。『大全』は『風月錦嚢』の續編巻2に収められており、内題では書名が「精選續編賽全家錦三國志大全」となっている。また、版心は『三國志』、巻頭の目錄では『桃園記』となっている。『大全』の第1・2葉の上欄の挿圖4幅は、第3葉以降の挿圖とは多少樣相を異にするが、これは重刊に際して、第3葉以降は以前の版木を流用できたのに對し、第1・2葉は版木の傷みがひどかったため新たに刻し直したものと考えられる。
 『大全』は北曲と南曲の曲牌を合わせて用いる、いわゆる南北合套のスタイルをとっており、1)別題を『桃園記』という 2)唱い手が頻繁に交替する 3)合唱がある 4)弋陽諸腔に見られる滾唱がある(2)ことから實際に劇場で搬演されていた南戲が冩定されたテキスト(3)と考えることが出來る。ところが、『大全』の冒頭には以下のような開場の唱(曲牌は〔沁園春〕)が置かれている。
「關羽英雄、張飛勇猛、劉備寛仁、桃園結義、誓同生死、天長地久、意合情眞、共破黄巾三十六萬、功盖諸邦名誉馨。十常侍貪財賄賂、元嬌受非刑。弟兄粛(ママ)聚山林、國舅將情表聖君、轉受(ママ)平原縣尹。曹公擧薦、虎牢關上、戰敗如臣(ママ)、呂布出關、李確(ママ)報怨、黄(ママ)允正宏倶受兵。三國志、輯成詞話一番新。」
 「三國志輯成詞話一番。」とあることから、嘉靖の頃形式上は南北合套であるこのような作品さえも「詞話」(4)と意識されていたことがわかる。「詞話」という言葉は元代の文獻中に散見されるが、元代の「詞話」の實物は殘っていない。「詞話」の意味するものは時代によって異なり概念規定が難しいが、孫楷第・胡士瑩兩氏は齊言句による詩讃系と長短句による樂曲系兩系統の講唱文學全體の總稱として捉え、葉德均・陳汝衡兩氏はこの語を詩讃系の講唱文學にのみ限定して用いている。近年その起源が元代にまで遡ることのできる詩讃系の『成化説唱詞話』が發見され、少なくとも詩讃系の講唱文學が「詞話」と呼ばれていたことは實證濟みである。しかし、いずれにせよ「詞話」が講唱文學であることには違いなく、〔沁園春〕曲中の「詞話」という言葉は『大全』が單に戲曲のテキストというだけでなく、その元が講唱文學の作品でもあった可能性を示唆している。そのように考えられる理由として、まず過去に三國故事の詞話が存在していたことが擧げられる。
 『三國演義』に先驅けて詞話のかたちをとる三國の講唱文學が存在していたことを豫想していたのは孫楷第氏(5)である。孫氏は嘉靖元年序刊本の『三國志通俗演義』を檢討し、詩讃系の三國詞話なるものが同書の藍本としてあったのではないかと考えていた。また、胡士瑩氏(6)は『三國志平話』の中に〔中呂女冠子〕の曲牌が殘っており、徐文長の「佚稿・呂布宅詩序」に「始め村の瞎子極めて俚なる小説を習ふに、『三國志』を本とし、今の『水滸傳』と一轍にして、彈唱詞話を爲るのみ。」(7)とあることから、孫氏の説にも信憑性があると言っている(7)。『大全』の存在は、孫氏の豫見通りとはいかないまでも、ある程度その推定を裏付けるものであるといえよう。また、『大全』は僅かに12葉半しかないが、後で述べるように、一曲だけで急に場面が轉換してしまったり、前掲〔沁園春〕曲中の「弟兄粛(ママ)聚山林、國舅將情表聖君、轉受(ママ)平原縣尹」という劉關張三兄弟が落草し、のち招安を受ける話(『三國志平話』にも見える)や、雜劇で有名な虎牢關で三兄弟が呂布と戦う話などは實は作品中には見えないことなどから、本來はこのような物語をも倂せ持つ長編の説唱であったと推察される(8)。『大全』では白ばかりでなく唱の部分も相當省かれており、意味不明の箇所も少なくないが、間に白を挾めば諸宮調のような樂曲系の説唱に近いかたちになるのではないか。元の石君寶の『諸宮調風月紫雲庭』雜劇の第一折の、見世物小屋で諸宮調を唱う女藝人韓楚蘭の唱(〔混江龍〕曲)に、「我唱的是三國志先饒十大曲。」(9)という句があり、當時三國の唱い物がよく知られていたことがわかる。但し、元代にこのような樂曲系の詞話が存在していたとなれば、中國俗文學史上重大な發見となるであろうが、假に『大全』の成立が元にまで遡れるとしても、それが『元史』などで觸れられている「詞話」(10)と同じものであったかどうかは更に檢討を要する問題である。
 そして詩讃系の説唱詞話『花關索傳』は當時、勿論口頭で唱われていた筈であるが、これなども安徽省池州では儺戲の脚本として用いられていた(11)ことからすると、詩讃系と樂曲系という違いはあるにせよ、『大全』の原型も同様に戲曲・唱い物兩用のテキストであった可能性が高いと考えられる。 
 次に、『大全』の内容を簡單に整理してみると以下のようになる。
1, 中呂[沁園春〕引子
2, (A)仙呂〔點絳唇〕〔混江龍〕〔油葫蘆〕齋微韻 桃園結義 劉備唱 
   (B)中呂〔粉蝶兒〕〔醉春風〕〔普天樂〕〔快活三〕〔脱布衫〕〔小梁州〕江陽韻
   (C)中呂〔駐雲飛〕東鍾韻 桃園結義 劉備・茶旦唱
   (D)仙呂〔八聲甘州〕齋微韻 桃園結義 生・外唱
   (E)黄鐘〔降黄龍〕〔尾〕齋微韻 桃園結義 外・末唱
   (F)般渉〔耍孩兒〕蕭豪韻 桃園結義?
3, 雙調〔淘金令〕魚模韻 連環計 王允夫妻(外・貼)唱
4, 仙呂〔甘州歌〕齋微韻 三兄弟嗟嘆 生・外・浄唱
5, 中呂〔耍孩兒〕〔三煞〕〔二煞〕〔一煞〕〔煞尾〕魚模韻 呂布嗟嘆 呂布唱
6, 中呂〔耍孩兒〕〔尾〕〔畫眉序〕〔尾〕先天韻 呂布貂蟬夫婦再會 旦唱
7, □□〔□□□〕齋微韻 場面未詳 外・丑唱 
8, 正宮〔端正好〕〔滾繍毬〕江陽韻 關羽嗟嘆
9, 正宮〔倘秀才〕〔□□□〕〔滾繍毬〕〔倘秀才〕江陽韻 貂蟬見關羽 旦唱
10, 中呂〔粉蝶兒〕〔醉春風〕〔脱布衫〕〔小梁州〕〔上小樓〕〔快活三〕〔朝天子〕〔四邊靜〕〔滿庭芳〕〔耍孩兒〕〔五煞〕〔四煞〕〔三煞〕〔二煞〕〔一煞〕〔煞尾〕先天韻 關羽斬貂蟬 關羽唱
11, 仙呂〔混江龍〕〔駐雲飛〕庚青韻 獨行千里・明燭達旦 關羽・搽旦唱
12, 仙呂〔點絳唇〕〔混江龍〕〔油葫蘆〕〔天下樂〕〔那吒令〕〔鵲踏枝〕蕭豪韻 獨行千里 關羽・劉備唱
13, □□〔□□□〕 江陽韻・支思韻 孔明自嘆
14, 雙調〔新水令〕〔那吒令〕〔慶東園〕〔沈醉東風〕〔雁兒落〕〔德勝令〕〔撹筝琶〕車遮韻 單刀赴會 關羽・周倉唱
 
 別題に『桃園記』ともあるように、2の桃園結義の物語に相當するところはかなり描冩が細かい。しかし、この部分は脈望館明抄本『劉關張桃園三結義』雜劇(12)の該當部分とは全く一致しない。『遠山堂曲品』の中で、「『三國傳』中曲、首『桃園』、『古城』次之、『草廬』又次之。」とあり、ここで言う『古城記』と『草廬記』に相當する作品は現存する(13)が、『桃園記』の方は完本が傳わらず、明代に編纂された『群音類選』(14)官腔類・巻12に4齣殘っているだけであり、この場面は珍しいものと言えよう。
 3~7にかけての場面は、呂布と貂蟬のロマンスを核とする有名な連環計の段で、『三國志平話』や元曲の『錦雲堂暗定連環計』雜劇(脈望館明抄本と『元曲選』本がある)にこの話があるほか、明の傳奇に王濟の『連環記』がある。
 9・10は關羽が貂蟬を斬るという話であるが、この話は正史には勿論のこと、『三國演義』や『三國志平話』にも見えない。『寶文堂書目』に元明間の無名氏の手になる『關大王月下斬貂蟬』雜劇(佚)を著錄するのみである。
 11・12はこれも非常によく知られている關羽の千里獨行故事で、雜劇では『雍熈樂府』(15)巻4に散套が収められているほか、脈望館明抄本に『關雲長千里獨行』雜劇がある。
 
 
 
 次に、この『大全』が元明の南北曲の三國戲とどのような關係にあるのか、場面を分けて具體的に檢證してみる。
 桃園結義(2) 前述のように、雜劇の明抄本と『大全』とは全く共通するところがなく、元雜劇で桃園結義を扱ったそのほかの演目も知られていない。しかし、北曲の曲牌が多用されていることからも、『大全』に先行する雜劇の作品がなかったとは考えにくい。恐らく傳存する雜劇とは別の作品を、南戲の桃園結義の段と組み合せ改編したのがこの場面であろう。南戲の『桃園記』(佚)の中に當然桃園結義の段も含まれていた筈であり、『大全』の別名が『桃園記』であることからも兩者の間に何らかの繋がりがあったと考えられる。
 連環計(3~8) 『輟耕錄』に院本の題名として『刺董卓』の名が見え、既に金代にこれに類する物語が唱われていたことであろう。『九宮正始』に「貂蟬女」なる作品から採られた曲が殘っており、宋元の頃から貂蟬を主人公とする物語が南戲にあったことも確實である。また、嘉靖の頃に王濟という人物が『連環記』という長編の傳奇を作り、抄本・刊本を含め何種類かのテキストがある(16)。そのほかに『群音類選』北腔類・巻1、『月露音』(萬暦刊本)巻4、『詞林逸響』(天啓3年刊本)月巻、『怡春錦』(崇禎刊本)御集、『歌林拾翠』(17)(明無名氏編、清刊本)初集、などの傳奇の散齣集にも『連環記』の散齣が相當數収錄されている。さて、これらを『大全』の該當する部分と比較してみると、雜劇の方は、貂蟬が元々呂布の妻であったことから彼女をめぐって董卓と呂布との間に確執が生じ、呂布が王允に唆されて董卓を殺すという設定自體は同じであるものの、曲牌・歌辭は全く異なっている。王濟の『連環記』は明らかに『三國演義』の内容を踏まえて書かれたものであり、基本的に『大全』とは設定が異なる。多くの散齣集に収められている『連環記』の散齣も、いずれも王濟の『連環記』を底本にしていたと見られ、やはり『大全』とは關係がない。但し、南戲に『貂蟬女』と題する演目があったことからわかるように、『三國演義』が刊刻される前に既に貂蟬を悲劇の女主人公とするもう一つの連環計の物語があった筈であり、『大全』は王濟によって書き改められる前の南戲『連環記』に據ったのではないだろうか。
 斬貂蟬(9・10) この話は『三國演義』や『三國志平話』にはないが、前述のように少なくとも雜劇には關羽が貂蟬を斬るという物語はあった筈である。しかし、この物語を含む元明の作品で傳存するのは、『大全』を除けば『群音類選』所収の『桃園記』中の『關斬貂蟬』13曲だけである。兩者を較べると、〔耍孩兒〕〔三煞〕〔二煞〕〔煞尾〕の4曲のみ歌辭に共通點が見られる。套曲から判斷するに特に『大全』の10の方は、元雜劇の『關大王月下斬貂蟬』に負うところが大きかったのではないか(18)。
 また、雜劇ではこの物語は元代で滅び、『三國演義』にも吸収されなかったが、南戲の中では元以降も民間で根強くその命脈を保っていたようである。明の胡應麟は『少室山房筆叢』巻41の「莊岳委談下」(19)で、「貂蟬を斬る事經(かつ)て見ず、自ら是れ委巷の談なり。然れども『羽傳注』に稱す;羽、布の妻を娶らんと欲し、曹公に啓すに、公、布の妻殊色有りやと疑ひ、因りて自ら之を留むと。則ち全く自る所無きにはあらざるなり。」と言い、明末清初の人で『三國演義』を改訂した毛宗崗はその毛氏批評の『三國演義』の凡例の中で(20)、「後人捏造の事、俗本演義に無き所にして今日の傳奇に有る所の者有り、關公、貂蟬を斬り、張飛、周瑜を捉ふるの類のごとし。此れ其の誣なること、則ち今人の知るところなり。」と述べている。毛宗崗が見た「關公斬貂蟬」の傳奇がいかなるものか不明であるが、『大全』に類するものが明末に流行していたことは間違いない。また、清乾隆抄本の彈詞『三國志玉璽傳』巻6及び乾隆刊本の『綴白裘』第11集巻3にもこの話はあり、關羽が貂蟬を斬る物語が『三國演義』を通じてではなく、各種の講唱文學や戲曲という媒體を通じて民間に流傳していたという事實は非常に興味深い。
 獨行千里(12) 一時曹操のもとへ身を寄せていた關羽が、劉備の二夫人を連れて河北にいる劉備のところへ向かう旅の途中の描寫である。雜劇ではこの關羽の獨行千里を題材としたものに脈望館明抄本の『關雲長千里獨行』、明の朱有燉の『關雲長義勇辭金』(21)があり、南戲では明無名氏撰の『古城記』第16齣のほか、『群音類選』巻12、『歌林拾翠』二集、『堯天樂』(明刊本)巻下、『時調青崑』(22)(明末刊本)などの散齣集にも一部分が収められている。また、『雍熈樂府』巻4にも「千里獨行」という散套が採錄されている。さて、ここで『大全』とこれらの一部分を比較してみることにする。なお〔風〕は『風月錦嚢』所収の『大全』、〔雍〕は『雍熈樂府』、〔脈〕は雜劇の脈望館明抄本、〔朱〕は『關雲長義勇辭金』雜劇、〔古〕は明刊本『古城記』、〔群〕は『群音類選』、〔歌〕は『歌林拾翠』、〔堯〕は『堯天樂』、〔青〕は『時調青崑』の略であり、異同がない場合には○、該當する歌辭がない場合には×で表すことにする。
 
〔風〕〔混江龍〕恰辭了奸雄曹操、休愁我獨行千里路途遥。
〔雍〕〔混江龍〕○○○○○、○○○○○○○○○○
〔脈〕×××××××××××××××××××××××
〔朱〕×××××××××××××××××××××××
〔古〕×××××××××××××××××××××××
〔群〕〔折桂令〕才離猛虎狂蛟、不怕×千里獨行途路迢迢。
〔歌〕〔折桂令〕才離虎穴龍巣、不憚着水遠山遥。 
〔堯〕〔折桂令〕才離虎穴龍巣、決不憚水遠山遥。
〔青〕〔折桂令〕才離虎穴龍巣、決不憚水遠山遥。
 
 雜劇には『大全』の歌辭に相當する部分が全くなく、〔折桂令〕の曲牌を用いている南戲も『大全』とは別の系統であろう。また、注目すべきは『雍熈樂府』がこの部分のみならず、〔點絳唇〕から〔鵲踏枝〕までの6曲、曲牌歌辭ともに殆ど『大全』と一致することである。嚴敦易氏はこの箇所について、元雜劇では〔點絳唇〕の套曲は例外なく第1折に置かれるものであるが、『雍熈樂府』の「千里獨行」の套曲は内容から判斷する限り第1折にあるべきものではなく、從ってこの「千里獨行」は雜劇の一部分ではなくてただ千里獨行故事を詠んだ散套ではないかと述べている(23)。しかしこれは『大全』のような南戲の千里獨行物語からの抜粋に違いない。單行本の『古城記』にはこの部分の歌辭がないのに、他の弋陽諸腔の散齣集中の『古城記』散齣には曲牌こそ違うものの歌辭が殘っているということは、『古城記』には宋元時代から傳わる戲文が祖本としてあり、單行本『古城記』の編者はそれを整理する段階で「千里獨行」の部分に大幅に手を入れたのに對し、『大全』や弋陽諸腔のテキストは比較的忠實にその部分を繼承してきたということにほかなるまい。
 單刀赴會(14) 關羽が僅かの手勢を率いて呉の陣営に乗り込むという物語は、關漢卿作の『關大王單刀會』雜劇にあり、これには元刊本と脈望館明抄本とがある。南戲では既に逸している『荊州記』にこの部分があったと思われる。それ以外には、『樂府紅珊』(嘉慶5年積秀堂覆明刊本、大英圖書館蔵)巻11、『珊珊集』(24)(明末刊本)巻3に散齣が収められている。
 
〔風〕〔新水令〕大江東去浪千疊、稱   西風駕下 小舟一葉、却離了九重龍鳳闕。
〔元〕〔新水令〕○○○○○○○、引着這數十人着這○○○○×不比○○○○○
〔脈〕〔新水令〕○○○○○○○、引着這數十人着這○○○○、又不比○○○○○
〔紅〕〔新水令〕○○○巨○○○、趁   ○○○  ○○○○、他怎比○○○○○
〔珊〕〔新水令〕○○○○○○、趁   ○○○  ○○○○、纔○○○○○○○
 
 ここに擧げたのは五種類のテキストの極一部分であるが、雜劇と南戲ではやはり少し異同がある。元刊本と脈望館明抄本、『大全』とを比較すると、明らかに脈望館明抄本の方が元刊本に近い。元刊本と、それ以外の諸本の間にも何箇所か異なる點が認められ、元完本以外の四種のテキストの字句がぴたりと一致するケースもあることからすると、『大全』や『樂府紅珊』、『珊珊集』は脈望館明抄本のような雜劇のテキストから名高いこの場面を取り上げ、適當に改作し上演していたのであろう。    
 
 
 
 以上、『大全』が雜劇の影響を受けながらも、失われて久しい宋元南戲の三國故事を繼承していることを指摘した。次にそれが『三國演義』や『三國志平話』とは別に、どのように人々に受け入れられてきたかということを見ていく。
 『大全』の11の部分は、關羽の節義を汚し、劉備と關羽の仲を引き裂こうと目論む曹操の奸計にはまり、二夫人と一緒にひとつ屋根の下に押し込められた關羽が明かりを手にしたまま夜を明かし、節義を守るという話である。この物語は『三國志平話』や脈望館明抄本の『關雲長千里獨行』雜劇、朱有燉の『關雲長義勇辭金』雜劇には無いが、南戲では前出の『古城記』第11齣、『群音類選』官腔類・巻12のほか、『詞林一枝』(萬暦刊本 内閣文庫蔵)巻2にも「關雲長秉燭待旦」の散齣がある。
 
〔風〕〔混江龍〕驛舎光寒、四下裏兵戈擾亂、  民塗炭似這等長夜漫漫。
〔古〕〔點絳唇〕○○○○○○○、可憐○○○○○○○○○○
〔詞〕〔點絳唇〕○○○○○○○、可憐○○○○○○○○○
 
 ここに掲げたのは一部に過ぎないが、曲牌こそ違うものの、歌辭はよく似ている。雜劇にはこの故事が全く無いことから、南戲の中で次第に形作られてきた物語であると言えよう。この故事について、胡應麟は『莊岳委談下』(25)で、「古今傳聞の訛謬、率ね有識を欺くに足らず、惟だ關壯繆の“明燭”の一端のみは、則ち大ひに笑ふべきに、乃ち讀書の士も亦た什に九之を信ずるは何ぞや? 蓋し、勝國の末繇り、村學究魏呉蜀の演義を編むに、傳に羽邳を守り曹氏に執へらるるの文有るに因りて、撰して斯の説を爲り、而して俚儒の潘氏又た考へずして其の大節を贊へ、遂に談を致す者紛紛たり。『三國志・羽傳』及び裴松之注及び『通鑑綱目』を案ずるに、幷びに此の文無し。演義何所くにか據りしや?」とその荒唐無稽を嘲笑している。胡氏は羅貫中が『三國演義』を書く時にこの話を創作したと思っていたようだが、『三國演義』の祖本の姿を比較的よくとどめていると考えられる閩本『三國志傳』や嘉靖元年序刊本の『三國志通俗演義』にはこの話はない。しかし、南京などで刊刻された京本系テキスト『三國志傳通俗演義』では補注としてこの故事を引く(26)。
 
 次日班師回許昌。量撥軍馬先起。雲長収拾軍仗、請二嫂嫂上車。親自引軍護送而行。操使人供送用物飲食。已到許昌。軍馬各還營寨。操撥一府、另與雲長居住。雲長分一宅爲兩院。内門撥老軍十人以守之。關自居外宅。[考證]三國志關羽本傳。羽下邳に戦敗し、昭烈の后と倶に曹操の虜とする所と爲る。操、亂其の君臣の義を亂さんと欲し、后と羽をして共に一室に居らしむ。羽、嫌疑を避け、燭を執りて后に待し、以て天明に至る。正に是れ一宅を分けて兩院と爲せるの時なり。故に通鑑斷論に曰ふ有り;燭を明るくし以て旦に達す、乃ち雲長の大節なりと。
 また、この故事は明代の日用類書にも見え(27)、文意は『三國志傳通俗演義』の注と概ね同じである。これらの元になったのは、元の人潘榮の著した『通鑑斷論』(『千頃堂書目』巻5には「潘榮通鑑總論一巻」とする)であった。この故事がなぜ雜劇や『三國志平話』、そして初期の『三國演義』の刊本に存在しないのか不思議と言えば不思議であるが、潘榮の生卒年についてはなお檢討の餘地があり、元末の生まれで、明代になって『通鑑斷論』を脱稿・出版したのであれば平仄は合う。ただいずれにせよ、通俗的な書物や民間の藝能を通して明代にこの物語が江南で廣く知られていたということは明らかである。毛宗崗は『三國演義』の凡例(28)の中で、三國の物語で缺かせないものとしてこの「關公秉燭達旦」を擧げ、俗本にはこの話が記載されていないが古本によってこの話を本文に殘したと言う。これは閩本『三國志傳』のある系統に見られる『花關索傳』の物語と同じく、民間の講唱文學・戲曲中の物語が小説の中に後から取り込まれたケースと見てよいであろう。
 ここで關羽が稱揚される「秉燭達旦」の場面を取り上げたが、この他にも「斬貂蟬」「單刀赴會」等、關羽の活躍する段は多く、ほぼ全篇にわたって關羽は登場している。このような傾向は『大全』に限らず、明代の弋陽諸腔の散齣集にしてもその中に収錄されている三國戲の演目の大半は關羽を主人公とするものである。これらの演目は、明の王穉登が『呉社編』の中で觸れている「關王會」(29)等の關羽を祀る社賽に於いて演ぜられていたものであったかもしれない。關帝信仰と雜劇の三國戲との關係については田仲氏、高橋氏のつとに指摘されるところ(30)であるし、近年山西で發見された社賽演劇の演目リスト「禮節傳簿」(31)は明萬暦2年に抄冩されたものとされるが、この中で關羽を主人公とする雜劇の演目の多さが目につく。
 雑劇と内容の上で密接な繋がりがあったと考えられる三國の語り物「説三分」については、元の『三國志平話』を見る限りでは、關羽の人物形象は非常に生彩を缺いており、張飛が全體を通じて主人公になっていることからすると、『三國志平話』の刻された元中壩葉ではまだ福建などの南方には關帝信仰がそれほど波及していなかったのではないかと推測される。明代の「説三分」については殘念ながら資料を缺くが、斷片的な記述中(32)にも關羽の話が多く、物語の中で關羽の占める地位が確實に上昇していることが窺われる。そして、關羽を中心とした三國物語への轉化に際し、少なからず影響を與えたに違いないのが武装集團内における關羽についての傳承であった。例えば、關羽が貂蟬を斬る話などは、なぜ貂蟬を斬らなければならないのかその動機が不可解であり、史實では關羽は呂布の妻(貂蟬という名であったかは不明)を自分から積極的に娶ろうとさえしていたのである。それがこのような殘虐な話に變わってしまった背景には、女性を災いの元と見做す武装集團に普遍的な考え方があったと思われる(33)。「斬貂蟬」故事が『大全』と武装集團とがどこかで結び付いていたことを示唆する内的證據だとすれば、多くの三國戲の演目を有する貴州省安順の「地戲」(假面劇の一種)は嘗て貴州に進駐していた明の軍隊の中で演ぜられていた歴史を持つこと(34)、民間武装集團では義のシンボルとして關羽を崇拝していたことなどが外的證據として擧げられる。清代の秘密結社天地會の結盟時の血判狀には冒頭に、「古より忠と義と兼ねて全きこと、未だ關聖帝君に過ぐる者有らずと稱す。其の桃園結義に遡りてより以來、兄弟啻に同胞なるのみならず、患難相顧み、疾病相扶け、芳名耿耿として、今に至りて棄てず。我(似)等帝の忠義を仰ぎ尊び、榮(勞)名を竊みて聚會す。」という文句があり(35)、構成員たちが「桃園結義」による三兄弟、その中でもとりわけ關羽の生き方に憧憬を抱いていたことがわかる。ここでは演劇のことについては觸れていないが、恐らく結盟の儀式が終了した後で、三國戲などが上演されたことであろう(36)。
 關帝信仰は元々は關羽の出身地山西を中心とする北の限られた地域の土着宗教であった。それが宋代以降神格が上がり、儒神、武神、水神、剣神、財神等のあらゆる性格が附與され、その知名度も全國區的なものになっていく過程で關羽に纏わる様々な民間傳承が生まれる。そして三國故事の講唱文學や戲曲がこれらの傳承を吸収していくにつれ、關羽の人物形象も徐々に變貌を遂げ、關羽を主人公とする物語への再構成が進んでいったのである。
 
 
 
 最後に『大全』の性格について整理しておきたい。
 『大全』の存在は、『三國志平話』や雜劇とは別に唱い物の「三國志」物語があり、その中で元の平話以降文献資料を缺く「説三分」が更に發展してきていたことを示唆してくれる。それゆえ小説『三國演義』の成立を考證する上でも勿論重要であるが、形式上は南北合套のスタイルでありながら、當時これが「詞話」と意識されていたことから『成化説唱詞話』に次いで古い「詞話」の實物と考えられる。しかも樂曲系であるということで、從来の、初期の「詞話」の定義を斉言體に限定する學説に一石を投ずるものであり、中國講唱文學史の上でも貴重な資料であることは疑いを容れない。
 次に『大全』の内容であるが、一貫して關羽を主人公とする物語展開になっており、關羽の人物形象には、山西から各地に波及していった關帝信仰の影響もさることながら、女色を忌避する武装集團のモラルが顯著に投影されている。『大全』には弋陽諸腔との共通點が多いことから、『大全』の原本は安徽・江西などの地域において、武装集團の中で傳承されてきた土着の三國故事を唱う講唱文學・戲曲の一つが、關帝信仰及びその祭祀儀禮と結び付きの強い雜劇の三國戲を吸収しつつ長編化したものだと推察される。そしてこの荒々しい英雄物語を、地元の新安商人が若干體制に合うよう修正を加え上品にしたものが今の『大全』であろう。秉燭達旦故事などは、關羽の忠義を宣揚することによって間接的に禮教の遵守を強調せんとする頗る禮教的性格の強い話であり、『大全』が雅の方向へ多少軌道修正されている一つの證左と言えよう。江西・安徽の諸都市は一體に建陽との經濟的な結び付きが強く、明後期の弋陽諸腔の散齣集の殆どが建陽で刻されたのと同じように、その後『大全』も建陽まで運ばれて上梓されるに至ったようである(37)。明の魏良輔の『南詞引正』に、「徽州、江西、福建より倶に弋陽腔を作す。永樂の間、雲・貴二省皆之を作す。唱を會くする者頗る耳に入る。」(38)とあり、明永樂年間以前に弋陽腔が既に成立し、それが福建・安徽・江西で大流行していたことがわかる。ゆえに『大全』の成立及びその傳播ルートの解明は、戲曲史研究の上でも重要な意味を持とう。雲南・貴州へ弋陽腔が傳播していたとしたら、その中の三國戲はどの樣な運命を辿ったのか。弋陽腔が發展したものとされる青陽腔に今でも傳わる長編の三國戲は『大全』と何か關連があるのか。そしてそもそもなぜ數ある戲曲の演目の中で三國戲はずば抜けて多く上演されるのか。三國戲だけについても問題は山積みされている。今後の新たな資料の發見を待ち望みたい。
 前に述べたように、從來の『三國演義』研究は、小説成立の考證の爲に平話や元の雜劇の三國戲を研究對象とすることはあるが、明以降の三國の説唱・戲曲に關しては小説の亞流として等閑視してきた。しかしその實説唱にせよ戲曲にせよ、元以後も『大全』のように古いものを受け繼ぎつつ獨自の發展と遂げてきているという事實は無視し難い。それらの中から、『三國演義』に依據した點、純粋に個人創作の點などを辧別して取り除いた後に殘った不純物の結晶中にこそ、中國社會によって育まれ、弛みなく發展してきた「三國志」物語の面白さの本質が隠されているのではないだろうか。   
 
 
【註】
(1)小論では『善本戲曲叢刊』(台湾學生書局1987)第4輯に収められている影印本を用いた。原本はスペインのエスコリアル圖書館に蔵されている。『風月錦嚢』については、劉若愚著・王秋桂譯「風月錦嚢考」(『中外文學』5巻6期1976)、孫崇涛「流徙海外的珍貴戲曲文献-西班牙蔵本『風月(全家)錦嚢』考釋之一」(『中華戲曲』第8輯1988)・「『風月錦嚢』的価値-西班牙蔵本『風月錦嚢』考釋之二」(『中華戲曲』第9輯1989)・「錦嚢『伯皆』述識-西班牙蔵本『風月錦嚢』考釋之三」(『中華戲曲』第10輯1991)、彭飛・朱建明「海外戲曲孤本『風月錦嚢』的新發見」(『上海藝術家』1988年2期)の論考がある。彭飛・朱建明論文では『風月錦嚢』は明の洪武年間か永樂年間に初めて刻され、成化年間・嘉靖32年にそれぞれ修訂増補されて重刊されたのではないかと述べている。
(2)滾唱及び弋陽諸腔については、王古魯輯『明代徽調戲曲散齣輯佚』(上海古典文學出版社1956)、張庚・郭漢城編『中國戲曲通史』(中國戲劇出版社1981)第4章第5節「弋陽諸腔的音樂」等を参照。
(3)三國戲については、陳翔華「先明三國戲考略」(『文獻』1990年2期)・「明清時期三國戲考略」(『文獻』1991年1期)という勞作があり、三國戲の主な演目はこれによって確かめられるが、弋陽諸腔の散齣集に収められている明代の三國戲について何の記述もないのが惜しまれる。
(4)孫楷第「詞話考」(『滄州集』上巻 中華書局1965)、胡士瑩『話本小説概論』(中華書局1980)173頁、葉德均『宋元明講唱文學』(中華書局1959)42頁以下、陳汝衡『説書史話』(人民文學出版社1987)108~115頁を参照。また金文京氏は詞話の意義の變遷について次のように言う。「明代に入ると、詞話は散文の小説體に書き改められる傾向があったようであり、また『歴代史略十段錦詞話』や『大唐秦王詞話』には、七言齊言句だけでなく、樂曲系の詩餘なども實は併せて用いられている。おそらくはこの事に關連して、詞話の意義が擴大し、散文小説を始め、樂曲系を含めた講唱文學全體が詞話の名でよばれるようになったものと思われる。」 金文京「『花關索傳』の研究・解説編」518頁参照。
(5)孫楷第「三國志平話世三國志通俗演義」(註(4)前掲書所収)。
(6)胡士瑩註(4)前掲書192頁。
(7)『徐渭集』(中華書局1983排印本)192頁参照。
(8)胡氏は註(4)前掲書193頁で、元初の禁令で詞話に言及する際「説唱」と言わず「演唱」「搬演」と言っていたことから、楽曲系詞話でも諸宮調のように長編のものは當時既に戲曲への過渡期にあったとする。そして、一方で詩讃系の彈詞・鼓詞は「旦唱」等と脚色を明記しているものが多く、初期の寶巻は「耍孩兒」の曲で話を始めるなど、少なからず樂曲系詞話の影響を受けていたことを指摘している。
(9)徐沁君校『新校元刊雜劇三十種』(中華書局1980)
(10)「刑法志4」禁令;「諸民間子弟不務生業、輒于城市坊鎮演唱詞話、教習雜戲、聚衆淫〓(氵+虐)、幷禁治之。」
(11)王兆乾「池州儺戲與成化本説唱詞話-兼論肉傀儡」(『中華戲曲』第6輯1988)参照。
(12)脈望館明抄本は『古本戲曲叢刊』第4集所収の影印本により、『孤本元明雜劇』(中國戲劇出版社1957)排印本を参照した。
(13)共に『古本戲曲叢刊』第1集所収。
(14)『群音類選』(中華書局1980)影印本。
(15)『四部叢刊』續編所収影印本。
(16)ここでは『連環記 金印記』(中華書局1980)排印本を使用。
(17)『月露音』・『詞林逸響』・『怡春錦』・『歌林拾翠』の四本はいずれも『善本戲曲叢刊』第2輯所収の影印本によった。
(18)黄仕忠氏は次のように言う。「王(季思)先生最近得到了『風月錦嚢』的複印件、我整理了一下其中『三國志』一劇。此劇雖作爲南戲演出、而實係雜綴北劇而成。從其中錄用『單刀會』、『千里獨行』雜劇散折的情況看、其中北曲套曲恐大多出元人劇曲、如其中冩貂蟬與關公的場面、即應是已佚的『月下斬貂蟬』的劇曲」註(3)前掲陳論文「明清時期三國戲考略」59頁。
(19)『三國演義資料匯編』(百花文藝出版社1983)640頁。
(20)『三國演義會評本』(北京大學出版社1986)21頁。
(21)『明人雜劇選』(人民文學出版社1958)
(22)『堯天楽』・『時調青崑』の二本は、註(17)前掲書所収の影印本による。
(23)『元劇斟疑』(中華書局1960)167~176頁参照。
(24)註(17)前掲書所収影印本を用いる。
(25)註(19)前掲書639頁。
(26)巻3「張遼義説關雲長」。京本系の『三國演義』は何種類か殘っているが、いずれも同文の補注を附す。ここでは明萬暦19年刊の萬巻樓周曰校刊本(内閣文庫蔵)によった。
(27)『和刻本類書集成』所収『新鍥類解官樣日記故事大全』巻4・齊家類「○明燭達旦 [漢]關羽、字雲長、勇而重義、爲劉先主守下邳、曹操攻破之、虜先主家室、欲亂其君臣之分、使劉夫人與羽共寝一室。羽避嫌執燭侍立至天明。粛粛如侍君父。」また、明袁黄『鼎鍥趙田了凡袁先生編纂古本歴史綱鑑補』39巻(明萬暦38年潭陽余象斗刻本、北京大學圖書館蔵)の巻12の本文中にも周曰校本の補注と殆ど同じ文がある。潘榮及び『資治通鑑』の通俗書については金文京氏よりご教示を賜った。
(28)註(20)前掲書20頁。毛宗崗批評本の本文は次のようになっている。「次日班師還許昌。關公収拾軍仗、請二嫂上車。親自護車而行。於路安歇館驛、操欲亂其君臣之禮、使關公與二嫂共處一室。關公乃秉燭立於戸外、自夜達旦毫無倦色。操見公如此。愈加敬服。既到許昌。操撥一府、與關公居住。關公分一宅爲兩院。内門撥老軍十人把守、關公自居外宅。」註(20)前掲書308頁。 
(29)『王穉登集』;「會有松花會、猛将會、關王會………」
(30)田仲一成『祭祀演劇研究』(東大出版會1981)第5章、高橋繁樹「千里獨行物語と關帝信仰」(岡村繁教授退官記念論集『中國詩人論』1986)参照。
(31)黄竹三「我國戲曲史料的重大發現-山西潞城明代『禮節傳簿』考述」(『中華戲曲』第3輯1987)参照。ちなみに、『禮節傳簿』の中に「張飛祭馬」なる演目が見えるが、これは弋陽腔から分化した徽調の散齣集『徽池雅調』に唯一の散齣が殘っている。
(32)馮夢龍編『警世痛言』叙に、「里中兒代庖而創其指、不呼痛、或怪之、曰“吾頃從玄妙觀聽説三國志來、關雲長刮骨療毒且談笑自若、我何痛爲。”」とあるほか、『水滸傳』(120回本)110回にも同じ場面の講談についての記述がある。『三國演義』と明代の説三分との關係については周兆新「從『説三分』到『三國演義』」(『三國演義考評』所収 北京大學出版社1990)に詳しい。
(33)孫述宇氏は、『花關索傳』には劉關張の三人が義兄弟の契りを結ぶに當たって後顧の憂いを斷つため妻子を殺そうとする血生臭い場面があり、『水滸傳』中の多くの物語に女性嫌悪の心理が反映されていることから、これらの物語は武装集團内で生産されたものであると指摘する。『水滸傳的來歴、心態與藝術』(時報文化出版事業有限公司1981)第1部第1篇「女人禍水」及び第3部第2篇「紅顔禍水」第3篇「家室之累」参照。
(34)修明「論軍儺地戲兼談關羽信仰」(『安順地戲論集』1990)参照。
(35)『天地會』(6)(人民大學出版社1987)304頁参照。
(36)田仲氏は「粤東天地會の組織と演劇」(『東洋文化研究所紀要』第111冊 1990)の中で、清代の秘密結社が結盟の際に三國戲を好んで上演した理由を以下のように説明している。「………ここで孫文は會党における演劇の効用を“群衆の視聴を動かし易き”點に求めているが、その内容としては、會員に不平の心、復仇の事、及び團結の心を養うものを理想としていたらしい。この點では、關帝信仰を紐帶とした『三國演義』の劇が最も相應しかったと言える。江湖英雄の活躍を演ずる『水滸傳』の劇も勿論、歓迎された筈であるが、中國地域社會の一般的な結合原理を説く點では『三國志』の方が普遍性があり、實際には結拝の際にも『水滸傳』より『三國演義』の方が上演が多かったと思われる。」
(37)蘆田孝昭「明刊本における閩本の位置」(『ビブリア』95號1990)参照。
(38)周貽白輯釋『戲曲演唱論著輯釋』(中國戲劇出版社1962)71頁。
 
附記 本論文は『東方學』第84輯(1992年7月)に掲載された「明代における三國故事の通俗文藝についてー『風月錦嚢』所収『精選續編賽全家錦三國志大全』を手掛かりとしてー」のWEB版である。