雲南関索戯とその周辺
 
                         上 田  望
 
 
0.前言
 筆者は2002年の春節に田仲一成氏とともに雲南省澄江県小屯村を訪れ、短い期間ではあるが「関索戯」を調査する機会を得た。関索戯は三国志故事の演目のみを演ずる儺戯の一種で、『成化説唱詞話』の『花関索伝』の発見とともに1980年代から注目を集めてきたものであるが、辺鄙な場所にある上に、上演の機会も春節のみに限定されており、現地澄江県や昆明の若干の研究者を除けば外地の人間でこれを調査した者はほとんどない(1)。筆者もかねてより、この関索戯の存在に関心を寄せていたが、今回の調査で、実際に演出を観て記録におさめ、また現地の人から直接話を聞き、関索戯の上演環境を確かめることができたので、それらについての報告とあわせて関索戯の儀礼とパフォーマンス、関索戯を成立、存続させている社会的・文化的諸条件について考えてみたい。
 
1.小屯村の基本状況
 まず関索戯が唯一伝わっている澄江県の小屯村の地理的環境と歴史を概観しておきたい(2)
 現在、小屯村は澄江県陽宗鎮に属する漢族の集落で、陽宗大?の南側の山麓に位置する山村である。澄江県は雲南省中部、昆明から60キロ離れたところにあり、県域には二つの主要な平野部、南の澄江?子と北の陽宗?子があるが、周囲はみな山地で、陽宗鎮へ行くには澄江の市街地から30キロの険しい山道を越えていかなければならない。
 陽宗鎮は元明から清初までは一つの独立した県であったが、康煕8年(1669)に河陽県(今の澄江県)に組み入れられている。清代の澄江府は四つの州県、すなわち河陽県、江川県、新興州(今の玉溪市)、路南州を治下に置いていたが、民国2年(1913)に府は廃止されて県となり、河陽県が澄江県へと名を変え、陽宗は澄江県第四区となる。更に1945年、民国政府が区を郷、保、甲に改めたことにより、陽宗は今度は聯慶郷と呼ばれるようになる。解放後、澄江県は玉溪地区に属することになり、陽宗はやはり澄江の一郷鎮、小屯村は陽宗の一自然村として現在に至っている。陽宗鎮の桃李弁事処は小屯村を含む10の自然村落を管轄しており、小屯村以外に核桃村、大里村、柏枝村、水盆、東山村、小団村、宝山龍、大竹?、蓋板山の村がある。桃李弁事処の管轄下には小屯村を含めて754戸、3,111人が住んでいる。1993年の調査では、小屯には136戸、653人が居住し、うち男性342人、女性311人で、年齢構成は6歳以下が28人、7歳以上40歳以下が350人、40歳以上が275人となっているが、今回の調査で確認したところ、2002年現在の人口は232戸、718人で、うち李姓が最も多く、30戸を数える。
 小屯村は澄江市街地から陽宗鎮桃李弁事処への道路が村の東側を通っており、交通の便から言えば陽宗鎮では好条件に恵まれている。しかし、地形的にみると山と?子の境目付近に位置し、浄蓮寺から流れている陽宗大河が堆積した土砂のためにしばしば氾濫して、田畑が埋まってしまうことがあり、土壌自体も浸蝕性の赤土で肥沃な土地とは言えない。村には水田が312畝、畑が300畝ある。1993年の統計では、村人の平均収入は446元である。
 小屯村はもとの名を先鋒営と言い、言い伝えでは、関索が征南軍の先鋒であった時、ここに兵を駐屯させたことがあったために、先鋒営と名付けたのだとされている。しかし、三国時代にすでに村が成立していたかどうかは甚だ疑わしい。金文京氏に拠れば、陽宗は元初にウリャンハタイとその子アジュが雲南に遠征したルート上にあり(3)、「先鋒営」の名にふさわしく、前線基地としての性格を帯びた集落が元初には存在していた可能性がある。 また『澄江概覧』では、歴史の記載から見て陽宗にもともと住んでいたのは主に彝族であったが、『澄江地名録』に「明洪武年間曾在此屯兵扎営者,故名」ともあるように明代洪武年間に沐英の雲南征討軍が河陽で屯田を行い、また移民を入植させたので、陽宗の少数民族は徐々に漢族と融合していったと述べている。更に陽宗の一部の農民が、南京柳樹彎から来たと称していることも、明末清初に大量の漢族が陽宗に入植してきたことの証左としている(4)。康煕27年に「新建霊峰寺碑記」が書かれているという事実からも、おそくとも清初には現在の小屯のある場所に漢族の集落が形成されたことはほぼ、間違いないであろう。関索戯の劇団責任者、李本?が語るのに拠れば、小屯にもともと住んでいたのは、董氏と馬氏であったが、董氏は霍乱のために死に絶えてしまったということである。馬氏では現在、馬双という老人がいるが、娘と一緒に大里村に移り住んでいる。新発見の康煕27年「新建霊峰寺碑記」に記されている功徳名録及び道光7年重修碑記の名簿からも、董、馬氏が小屯に住んでいたことが確かめられる。
 
2.関索戯の来歴
 どうしてこの小屯村にのみ、関索戯が伝えられているのであろうか。関索戯はこの雲南で形成されたものなのか、あるいは外地から伝播してきたものなのであろうか。小屯村でいつ頃から関索戯が上演されるようになったのであろうか。こうした疑問は関索戯を論ずる際に避けて通れないものである。
 これらの問題について現地ではどのように考えられているのか、まず小屯の村人たちの声に耳を傾けてみることにしよう。
 小屯村の父老の言い伝えによれば、清代初期(ある者は順治年間、ある者は康煕年間と言う)、小屯一帯で毎年、疫病が流行し、人間も家畜もひどい被害にあった。占い師が言うところによれば、関索戯を唱えば、人間も家畜も平安を保てると言ったため、毎春演じるようになり、果たせるかな災害が減ったためにこれが習俗となり、のちに三年演じて、三年休むという規則ができあがり、それが現在に至るまで続いているということである。
また?相根(当時82歳)が語るには、「小屯の名士、李成龍と?兆龍(?相根の五代前の先祖)が路南州から人を呼んできて関索戯を演じ、また張と李という二人の芸人に留まって貰って芝居を習った。路南大屯には三十五の角色があり、陽宗小屯には二十の角色があり、現在に至るまで継承されてきている」と言う。老芸人?向庚も、小屯の関索戯は彼の祖先、?兆龍と小屯村の李成龍が責任者となって、路南州から張、李という二人の先生を呼んできて始めたものであるとする。?姓の関索戯の伝承者は、?兆龍から始まって、?成忠、?元明、?其富、?培基、?占鰲、?向庚、?自文となっており、顧峰氏は兄弟の輩行が入っていないことから、関索戯の始祖?兆龍は七代か八代前と推定し、更に同氏が霊峰寺で発見した碑文(道光7年(1827)閏5月初9日重修時に建てられたもの)に?兆龍の名前を認め、?兆龍が道光の人であったことから氏の推測をほぼ確実に裏付ている(5)
 関索戯が清代道光年間に路南より将来されたものであることはほぼ間違いなさそうであるが、路南には関索戯に関する遺跡、遺物は残っておらず、路南の関索戯の源をたどる糸は雲南省の中でとぎれてしまっている(6)。だが、そこから先の伝播経路については1980年代にすでに専門家から傾聴すべき説が出ている。
 薛若鄰氏は、雲南の関索戯が開演の前に福を祈り、邪を祓う唱詞の中に「自従今日王風過」とある「王風」が「皇風」の訛であり、それは江蘇浙江の呉語地区の人が「王」と「皇」を区別できなかったためと考え、また清代浙江呉語地区の湖州府武康県でもかつて関索故事が上演されたことから、江蘇浙江の呉語地区の儺戯に源流があると推定した。そしてそれが次第に西へ伝わっていき、今日の江西、安徽、湖北等の省を経て、貴州に伝わり、三国故事を専門に上演する「地戯」の一が咸豊以降に雲南に流入したのであろうとする(7)
 また薛若鄰氏と同じ時期に調査を行った顧峰氏は、霊峰寺大殿の位牌に「勅封有感風火楽王之神位」とある「楽王」は四川貴州でもよく祀られている「藥王」のことであり、雲南の多くの儺戯も四川貴州からきていること、また文献から見ると貴州安順の「地戯」は儀礼や仮面を用いるなど関索戯と共通する点が多く、安順地区は明清以来、中原と江南の人間が雲南に入る時に必ず通る経路であったこと、関索戯の演目は?子・皮黄戯の中にも見いだせるが、明初以来、雲貴の戯曲の声腔はほとんど同じであったことなどを指摘して、薛若鄰氏と同じく貴州から雲南の路南を経て小屯に伝わったことを述べ、更に「花関索」の演目を有する儺戯の分布状況や、池州の儺戯と関索戯はともに仮面のことを「虎」と称していることなどから、池州、恩施などの地から貴州を経、それから雲南へ入ってきた可能性が高いと結論づけている(8)
 また1984年に顧峰氏とともに関索戯を調査した王兆乾氏も、池州儺戯の専門家としての立場から、関索戯との共通点を指摘した上で、関索戯の方が池州のそれよりも儺戯としての古い特色を失っていること、「藥王」はもともとは「??」の三人の息子でそれが関三郎から関羽の第三子、関索へと変わっていったのではないかという大胆な仮説を述べている(9)
 この三氏の説はいずれも江南の儺戯が貴州を経て雲南に伝播し関索戯を形成したという点で共通しており、それぞれ卓見を含むが、いずれも貴州の地戯を実際に調査していない点で、果たして地戯が江南の儺戯と関索戯とを結ぶミッシング・リンクたり得るのか、若干説得力を欠く。筆者もかつて地戯を調査した際、地戯と関索戯との関わりについて考えてみたことがあり(10)、以下で主に上演形態から両者の連続面/非連続面を検討する。
 
3.関索戯の上演環境と祭祀儀礼
 2002年2月15日(初四)に小屯村霊峰寺(写真1)で執り行われた薬王に対しての祭祀儀礼を見ることができたが、これは関索戯を上演する上で絶対に欠かせないものであり、通常は臘月吉日に「領牲」で薬王を祀ることから始まり、正月十六日の「送薬王」をもって終わる。その間、演員は集中的に練習し、衣装を着て?村?街を行い、広場で「点将」の演出を行い、「送薬王」が終わるまで、四つのプロセスがある。以下にそれを分けて述べる。
○ 祭薬王
毎年臘月に吉日を選んで、上演の前と終了後に薬王を祀る儀式を挙行するが、儀式が執り行われる霊峰寺について少し説明しておく。霊峰寺は清康煕27年(1688)に建てられ、道光7年(1827)に改修されている。建物は西向きに建てられており、前殿、正殿と二つの廂房から構成されている。正殿内には18体の神像が安置され、真ん中には五顕霊官、文差、武差、左右に田公、地母などの神々が居並ぶ。関索戯を演じる時には、必ず正殿の五顕霊官の位牌の前の二本の柱に一本の縄を張り、縄に「敕封有感風火薬王」と書かれた長さ3尺、幅2尺の赤い紙の位牌を掛けることになっている(写真2)(11)。また、位牌の前の台には関索戯の上演に用いる仮面がぎっしりと並べられ、更にその手前にはそれぞれ酒、水、肉が一切れのっている米の三つの碗が置かれており、寺の院内では柏の枝が焚かれている。こうした支度が整い、すべての劇団員が斎戒沐浴して集合し、儀式が始まる。以前はこの時から正月十六日まで霊峰寺に泊まり込み、自宅には食事に戻るだけで、寝ることはもちろん、子供を抱くことも許されないなど厳しい掟があったらしい。
 集合した劇団員たちは霊峰寺の外で適当に一羽の鶏をおいかけて捕まえる(あとで弁償する)。これを「?鷄」という。そして鶏を抱えた人間とこの儀式に参加した劇団員たちは寺内に入って柏の枝の焚き火を飛び越え、邪気を祓う。それから鶏のくちばしと脚を清めて正殿内に進み、祭壇の三つの碗をついばませようとする。それぞれを鶏がついばんだら「領牲」であり、そうでなければ、その鶏を放してまた別の鶏を捕まえ、ついばむまで同じことを繰り返す。またこのとき、鶏を抱いている主事者(劉備を演じる役者と決まっている)は「領牲詞」を念じる(12)
関索薬王関索経,  伝与世上衆生聴:
劉備関羽張翼徳,  桃園結義万古名。
東奔西逃無親誼,  三請孔明佐聖君。
四川成都興王室,  五虎上将保朝廷。
只因劉家天下満,  忠臣義士狂費心。
十八大将封成神,  保護人民得安寧。
?処頂戴保?処,  善男信女要斉心。
若有不信冒犯者,  当時災星降来臨。
善男信女斉敬信,  保佑人畜得清平。
念じおわったら、鶏を殺し、鶏の血を酒の碗に入れ、その血を仮面の額の部分に少量つける「点血開関(光)」の儀式を行う(写真3)。そして引き続き叩頭して礼拝を済ませ、それぞれ一人ずつ碗の血を一口すする。更にこのあと鶏を煮てから祭って、みんなで薬王の前に跪いて「薬王大将,今天大家誠心誠意替?老人家出去玩,請?保佑我們清吉平安!」ととなえ、鶏を分けて食べることになっている。
○ ?村、?家、?街
 元旦、薬王への祭祀儀礼が済むと、劇団員たちは正殿の中で芝居の衣装と仮面を着ける(13)。二人一組で列を作って霊峰寺を出て、村の中を巡遊するが、これを「?村」と言う(写真4)。その際、誰と誰がペアになるかは決まっていて、張飛と假張飛、関索と黄山岳、鮑三娘と百花公主、小軍と鞏固、張邦と張遷、趙雲と馬超、秦蛟と厳顔、黄忠と蕭龍、関羽と周倉、劉備と諸葛亮、というように隊列を組む。「?家」とはこの巡遊中に、各戸の求めに応じて福を祈ることである(喪に服している家と妊婦のいる家は除く)。戸主は爆竹でこれを迎え、隊列は家堂に入って円になり、主事者がそれぞれの戸にあわせて「吉祥詞」を朗読する。例えば次の如し:
今日来到此地方,  五方龍神鎮中央,
漫開金口請封贈,  富貴栄華万年長。
あるいは
君王来到此地方,  五方龍神鎮中央,
自從今日王封過,  子孫要出状元郎
基本的に第二、第三句は固定していて変わらず、ただ首句と尾句だけが「進得門来亮堂堂,…………五穀豊登糧満倉」、「進得門来喜洋洋,…………牛馬猪羊長得壮」などのように入れ替わるものであるらしい。賀を受けた家はタバコや茶でもてなし、「喜礼」を送って感謝の意を表す。
 小屯村を巡りおわったあと、日を選んで村を出て陽宗地区の余所の村を巡業し、小屯村と同じように「?村」「?家」を行う。初一は慣例として余所へは出かけないことになっているので、初二にまず陽宗鎮へ出かけ、初三から余所の村を巡り始めるが、虎の日か龍の日を選ぶことが多い。今回の聞き取り調査で田仲一成氏の質問を通して「?村」の日程と回る村がほぼ固定化しており、劇団が小屯の東の村から順に回り、陽宗海まで行くと、今度は西側に回り、それから小屯村に戻ってくることも確かめられた(14)
 隊列が村を出る時には必ず「土炮」を放ち(鉄管内に火薬を詰めてある)、三回これを撃ち鳴らす(15)。村に入る時に、その村の群衆は両側に立ち、村の入口で銅鑼と鼓を打ち鳴らし、爆竹でこれを迎える。各戸は門の前で柏の葉を燃やし、疫病を追い払うなどの点は、「?家」と同じである。なお、「?家」と関索戯の上演が済むと、劇団の一隊はその村の寺廟に入って跪いて祀り、酒食の供応を受けることになっているが、その際、仮面や衣装などは必ず脱ぐ。食事が済むと衣装を身にまとい、村の広場あるいは村の入口で順番に粛然と立ち、「辞神」の儀式が行われる。まず全員で辞神詞「一報天和地,二報日月照霊神,三報王風并水土,四報?娘養育恩」が唱われ、次に張飛を演じる者が別の辞神詞「一振英雄三千秋,游遍天下海和州,九州四海揚名姓,到処逍遥好風流」を朗誦し終えてからその村を立ち去ることができる。
 また、陽宗鎮では毎年、新年の初市がたつ時に、陽宗地区の各村から文芸隊が参加する大がかりな活動があるが、それに小屯の関索戯劇団が参加することを「?街」と呼んでいる(写真5)。今回の調査では、2月15日(初四)午後に陽宗鎮人民政府の広場でこの催しが挙行され、関索戯以外にも三村の「龍灯」などを見ることができたが、関索戯は毎回、これらの文芸隊の先頭を切って広場に入場することになっており、関索戯が陽宗地区で非常に重視されていることがわかった。
○ 送薬王
「送薬王」は正月十六日、各村での上演が終わったあと、薬王の牌位のまえで行われる。二人一組になって薬王の前に立ち、廟の門の外へ向かって叩頭して拝礼する。立ち上がって向かい合い一礼し、また薬王を拝してそれから衣装をしまう。最後に鍵をかけ、来年また取り出して使えるようにする。
 「送薬王」の儀式は今回、残念ながら目にすることができなかったが、真夜中に挙行されるのが決まりで、全員が神の前に跪き、一人が赤い紙の牌位を両手で捧げ持ち、すべての演員は手に香を持って後ろに付き従う。隊列は小屯村の西北にある南潭泉に行き(写真6)、一斉に跪いて声をそろえ「薬王大将,我們誠心誠意爲?老人家玩了,現在送?回天上」と念ずる。そして香を泉の土手に挿し、牌位を燃やし、爆竹を鳴らす。礼が終わると、村へ戻るが道で口をきくことも、振り返って見ることも許されない。
 このような儀礼及び関索戯の伝統を守り続ける劇団であるが、彼らはプロではない。上演時は二十の仮面の主要な人物、鑼鼓隊、飛虎旗や令旗、たいまつをもったり雑用をする人員あわせて40人程度が必要となる。ここで興味深いのは、二十の主要な角色は父から子へと伝えられ、子から孫へと伝えられ、子供がない場合は?か親戚に受け継がれる世襲制であり(16)、他の村から婿入りした人間の参加を認めないことである。また二十の角色のうち、二人の女性すなわち鮑三娘と百花公主がいるが、いずれも男性が演じ、女性は上演には一切参加しない。上演に必要な経費に関しては、以前は村に70畝あまりの公田があり、その土地からあがる年貢を関索戯の上演費とし、不足分は?家で得た喜礼で補っていた。もう一つの財源は、上演、練武の時間やその他の規定を守らなかった人間からとる罰金であった。しかし、公田がなくなり、時代の変化で罰金を徴収することも難しくなり、上演にかかる費用は、?家の喜礼、村の公益金、県文化部門の補助金から拠出されている。支出の内訳は、役者への報酬(誤工費)、上演の時に必要な紙、灯油、衣装の補修、道具などの消耗品費、上演最終日の飲食費などである。
 
4.関索戯の演技と演出形式
 今回の調査では2月14日(初三)の午後に1)点将(写真7)、2)花関索戦山岳、3)三娘公主戦(写真8)、4)夜戦馬超、5)長板坡(片段)(写真9)、6)三戦呂布、の上演を観、翌15日の「?街」では「収黄忠(取長沙)」を観る機会を得た。
 通常、関索戯の正式な演出は廟の前の広場で行われる。廟がない場合には広い場所が選ばれ、例えば小屯村では霊峰寺の前ではなく、小屯小学前の校庭で行われていた。どこの村へ行っても関索戯の上演の前に最初に演じられるのが、きわめて儀式的な「点将」という演目である(17)。全隊が広場に入ってから、劇団員たちは列をなし、銅鑼の単調なリズムにあわせて数周広場の中をめぐったあと、二手に分かれて整列する。劉備と諸葛亮は二列の中間で廟(この場合は小屯小学校)から最も遠い位置に廟を正面に立ち、 続けて劉備が「君王坐在金鑾殿,文武大臣両辺排,文官提筆安天下,武官抬刀鎮乾坤」と唱うと、銅鑼がなり、今度は劉備と孔明は廟を背に、廟に最も近い位置へと移動し、劇団員もいま立っている列の中でゆっくりと順に場所を移動し、これを「走場」と呼んでいる。これをこのあと四回繰り返し、関羽、張飛、趙雲、馬超、黄忠を一人ずつ呼び出して五虎将に封ずる「分封」がある。劉備がまず「関雲長大総兵聴令」と言うと、関羽が「聴令」と応え、続けて劉備が、「封為壮(『関索戯志』では「撞」)天虎大将軍。打紅旗,披紅鎧,紅人紅馬,紅下将軍,領兵一支,帯領十万兵馬,鎮守在荊州(『関索戯志』では南方)丙丁火,不可遅誤」と言い、続けて関羽が「謝主隆恩」(『関索戯志』では「領旨」)とうけると、青龍刀と振り回してごくごく簡単な演武を行い、列へと戻る。次に呼び出されるのは張飛で、以下趙雲、馬超、黄忠と続くのが通例であるが、今回の「点将」ではなぜか、最初が張飛と假張飛で、そのあと関羽、趙雲、馬超、黄忠となっていた。それが済むと全員が一旦広場から退場し、関索戯の上演が始まる。この「点将」はいわゆる「五方兵馬」という儀礼と関係があり、五方の兵馬を点検し、東西南北中央の五方を守らせ、村落の安寧を保証しようとするものであり、貴州の「地戯」をはじめ、多くの儺戯に類似の文辞が見られる。
 一点東方甲乙木   青旗青号領三軍 
 一支令箭交与?   与我東方去安営。
 二点南方丙丁火   紅旗紅号領三軍 
 一支令箭交与?   ?往南方鎮邪兵。
 三点西方庚辛金   白旗白号領三軍  ………(貴州安順陶関村)(18)
 関索戯にどのような演目があるかについては後述するが、いずれも内容は簡単で、唱い回しも比較的単調である。演技に注目してみると、ほとんどの演目で「武打」が主であるが、動作はかなりゆるやかで単純であり、かねてより関係を示唆されている貴州の「地戯」と比べるとその特徴がより鮮明になる。地戯には実に、1)?槍 2)抱月 3)避棍 4)?叉 5)単鳳 6)双鳳 7)冲槍 8)掃脚棍 9)頓槍 10)比武 11)?爪 12)敗退 13)打背 14)三刀 15)抱拳という15の組み手があり、また隊形動作は、1)進場、2)観陣、3)行兵、4)破陣、5)圍殺の5つのパターンがあり、手の特殊な動作だけでも八種類の仕草がある(19)。これだけを見てもわかるように地戯の動作は武術の演武に近くかなり複雑で、かつ素早く飛び回りながら移動し、激しく武器と武器で切り結ぶ。それに対し、関索戯の足の運びは、武器をかまえ対峙した武将が身をよじらせ背中合わせに通り過ぎ、間をとってまた対峙するという八の字の動きか、二人で円を描いて回る円の動きの2パターンしかない(女性の場合は一歩ごとにがくっと膝を落としながら、狭い範囲を徘徊するような動きがある)。「夜戦馬超」などのように演目によっては片足を高く上げた跳躍が見られることがあるが、全体的に見れば地戯の「飛腿」のように両足が瞬間的に地面から離れる動作はまれである。また地戯は細かい手の動きがいろいろとあるが、関索戯にはそうした仕草はほとんどない。武器を用いた組み手も地戯よりはるかに単純であり、両手または片手で武器を振り回しながら交戦するが、地戯と異なり武器と武器とが激しくぶつかりあうことはなく、武器と武器が接触するのは地戯の「拍槍」のように両者が武器をそれぞれ高く挙げ、×印をつくって静止する動作があるだけである。
 
5.関索戯の演目
 関索戯の演目は以前は十八本、各本四、五出あり、計約七、八十出あったとされている。文化大革命で脚本が燃やされてしまったため、澄江県文化局が救いの手を述べ、ベテラン劇団員?向庚、李本?、?自文たちに唱詞やせりふを思い出してもらって記録に取り、脚本を整理した。現在伝わっているのは全部で三十五本であり、一部の作品は『関索戯志』、『澄江概覧』で目にすることができる(20)
 
 
 
【関索戯の演目】    『関』=『関索戯志』  『澄』=『澄江概覧』
1)大破黄巾
2)三戦呂布
3)水淹下?
4)白馬坡(斬顔良)
5)誅文醜
6)過五関(斬六将) 『澄』
7)収周倉  『澄』『関』 
 ※『花關索傳』には「関索入川捉周倉」という題目がある。
8)古城会  『関』
 ※中路?子と関索戯とでは唱詞は全く異なる。また関索戯は斉言句のみで  構成されているが、?子はそうではない。
9)三請孔明
10)博望坡
11)子龍保太子(長板坡)
12)赤壁鏖兵  『澄』
13)収黄忠(取長沙)
14)趙雲取桂陽
 ※『花關索傳・後集』に「長沙趙雲軍也到」とあり、『三国志平話』でも  趙雲が長沙を征討することになっているが、小説『三国志演義』では関  羽が長沙を征討し、趙雲が桂陽を征討することになっている。
15)張飛取武陵
16)過江招親
17)三気周瑜
18)収厳顔(夜過巴州)  『関』 
 ※この作品には珍しい假張飛(徐大漢)という角色が出てくる。  
19)取西凉
20)夜戦馬超  『澄』 
 ※張飛と馬超が戦う段で、地戯にもこの場面はあるが、字句は全く異なる。
21)収姜維  『澄』
22)張飛取天蕩山  
 ※『三国志演義』では天蕩山を取ったのは黄忠と厳顔である。
23)趙雲戦馬超(趙雲与馬超大戦) 『澄』 
 ※天蕩山関で趙雲と馬超が戦う。
24)劉備点将  『澄』
25)李恢説馬超(李恢説合馬超)  『澄』『関』 
 ※皮黄戯に「訓馬超」がある。地戯にも同じ演目があるが、李恢の説得の  言葉は白で、一方関索戯ではかなり長い唱詞となっているなど、別物で  ある。李恢は兪元(澄江)県城の人。諸葛亮の南征にしたがい中路統帥  として幾多の戦功をあげ、漢興亭侯に封ぜられており、『三国志・蜀書』  にも伝がある実在の人物である。彼が若かりし頃の「試剣石」の伝説な  どが澄江には伝わっており、また彼の息子李蔚と関羽の娘、関銀瓶(関  三小姐)との物語もこのあたりではよく知られている。
26)花関索戦三娘
27)三娘公主戦  『澄』『関』
 ※花関索の妻、鮑三娘と百花公主が戦う演目。百花公主については明代伝  奇や皮黄戯に「百花公主」「百花点将」「百花贈剣」などがあるが、みな  元の時代の話で、安西王阿難答の娘、百花公主と江六云との恋愛・結婚  が主旋律となっている。また中路?子にも「百花点将」があり、やはり  元代、安西王阿南達が皇位を簒奪しようとする嘉興の乱を描いた作品で  あるが、公主は戦に敗れて自害を余儀なくされ、二人が結ばれることは  ない。なお中路?子では公主は雌雄双剣の使い手で、関索戯では鮑三娘  と同じく双?を使う。
28)花関索戦山岳  『澄』『関』
29)山岳認兄  『澄』 
 ※山岳は馬超の弟という設定で、馬騰が殺されたあと、黄員外に養われた  ことになっている。『花関索伝』でも花員外によって関索は育てられた  ことになっている。
30)馬超認娘
31)黄忠戦蕭龍
32)鞏固戦張邦(張邦与鞏固大戦)  『澄』『関』
33)秦蛟戦厳顔
34)山岳戦張遷
35)張?戦張邦   
 
 1)から21)までは?子・皮黄戯に類似の演目を見出せる。ストーリーもほぼ同じだが、唱詞は異なる。狭義の関索戯ということで言えば、26)花関索戦三娘、27)三娘公主戦、28)花関索戦山岳、ということになろう。また29)から35)までの演目は、他の地方劇には見られない関索戯独特の作品である。どこまでが古い関索戯の演目であったのか、線引きをするのは難しいが、関索戯で着用する仮面は蜀漢の登場人物二十人分しかなかったようであり、1)から35)までのうち、仮面のある角色だけが登場する演目を古関索戯と仮に呼び、清代中期以降に他の地方劇から物語や唱詞を移植してできたと考えられるものを新関索戯と呼ぶことにする。そうすると、古関索戯の古い演目は、35種のうち、7)収周倉、18)収厳顔、20)夜戦馬超、24)劉備点将、26)花関索戦三娘、27)三娘公主戦、28)花関索戦山岳、29)山岳認兄、31)黄忠戦蕭龍、32)鞏固戦張邦、33)秦蛟戦厳顔、34)山岳戦張遷の12種ということになる。
 これらの演目の特徴を内容・形式からまとめると、次のようになる。
@テーマと構造の類似性:
 関索戯の演目がみな似た構造を持つことについては、すでに劉体操氏が指摘しているように(21)、多くの演目で、侵攻する蜀軍がすすんで戦いを挑み、守る側の「小軍」が出てきて応戦するが、数合もわたりあうことができず、退いて守る側の大将に報告する。それから敵の大将が出てきて蜀の武将とあいまみえ、名乗りをあげてから互いに打ち合うが、戦ったり休止したりしながら、説と唱を交互に繰り返す。そして蜀側はたいてい相手方に速やかに投降するよう呼びかけ、多くは蜀に帰順するか、あるいは数十合戦って勝敗がつかず、明日の再戦を約して引き上げるというパターンが多く、物語の肉付けが少ないのが特徴と言える。そしてこれもすでに指摘されていることであるが、演目に「収」字がつくものが多いのは、蜀漢の陣営が壮大であり、その立場が正統であることを顕示していると見てよいであろう。以下に挙げるのは「花関索戦山岳」の一部であるが、関索が小軍を打ち負かし、続けて黄山岳と一戦を交え、勝負がつかずに終わるという関索戯の典型である。
関  索(白)大将漢関索,
百花公主(白)長槍手中拿,
関  索(白)西川認箇婦,
百花公主(白)一束定山紅。
関  索(白)某家関索,
百花公主(白)夫妻二人,奉軍師之将令,前去攻打川城。
関  索(唱)花関索,停住槍,一声大罵;
       罵一声,黄山岳,無名小娃。
       夫妻們,領兵馬,来到西川,
       我老爺,在西川,名揚四海。
    (白)報与小軍!
小  軍   有!
関  索(白)早早報与黄山岳,早来投順,饒他性命。若是不来投順,殺他       片甲不留!
小  軍(唱)小軍生来志氣高, 
       頭戴金?腰?刀,
       耳聴門外有人叫,
       待我出去?一?。
    (白)小軍,?是何人,来此大叫?
関  索(白)我乃大将関索。叫?前去,報与?家山岳得知;早来投順,饒       他性命,若是不来投順,殺他片甲不留!
小  軍(白)既然如此,放馬過来,我与?就戦!
       ……………………        「花関索戦山岳」より
A唱詞と音楽:
 関索戯の脚本の唱詞は、長短句の曲牌体ではなく、斉言句の板腔体であり、七字句や十字句が多い。古いかたちの唱詞はみな第三人称の叙事体であったと考えられるが、「我」「?」などの代名詞が入ってすでに代言体になっている部分もある。また、「三戦呂布」、「三請孔明」などは京劇、?劇にも似た演目があることはすでに指摘があるが、「取長沙」などは中路?子の「戦長沙」と唱詞がそっくりである。唱詞が多少、文雅で唱段が長いものは、京劇、?劇など他の演劇の影響を蒙っているとみてよいであろう。
 唱う時のメロディは、七字句を唱う時の「七字板」と十字句を唱う時の「十字句」がある他、?劇が流行した時に?劇の「襄陽二流」「襄陽三板」などの節回しが関索戯に入り込んでいる。伴奏は打楽器のみで管弦楽はなく、儺戯の古いスタイルを踏襲している(22)
B角色:
 小屯二十虎と呼ばれるように、二十の角色だけ仮面があることは繰り返し述べてきたが、蜀漢側の人物が大半で、魏、呉の人物の面などはない。そのため魏、呉側の人物を演じる際には、二十の仮面のいずれかを借用してやりくりしており、例えば「長坂坡」の夏侯淵は張邦の仮面で代替し、「過江招親」の孫尚香は鮑三娘の仮面で代替しているということである。ただ、旦(女性)の仮面は二つしかなく、女性三人が同時に登場することになるとやっかいであるが、さすがにそのような演目はないらしい。
 古関索戯の演目で目を引くのは鮑三娘、百花公主など女性の角色の活躍である。これは『花関索伝』や安徽池州儺戯、地戯などにも同じ現象が見られ、小説『三国志演義』の世界とは異なり、芸能、演劇の世界では女性が抑圧されていないからであろう。四川や貴州は流動性の高い移民社会であり、江南ほどには宗族観念が強くなく、共同体の成員間や家庭内での男女の関係が比較的対等であることが指摘されているが(23)、雲南もおそらくそれに近いのではないだろうか。
 
6.結びにかえて
 関索戯は地戯と比較すると、祭祀儀礼の部分では共通するところが多いが、演技などに関しては異なる部分が意外に多く目につく。これは江南から伝播してきた儺舞が清代中期頃に枝分かれし、貴州と雲南で独自の発展を遂げていったためであろう。儺舞が英雄劇に転化していく条件は、貴州安順と雲南小屯でそんなに大きな違いはない筈であるが、安順では多くの村落が地戯の業余劇団を擁し、強烈なライバル心からその演技を高度なものへ磨いていったのに対し、小屯では早くから他の関索戯劇団のライバルが消え、小屯の独壇場であったことが影響しているかもしれない。
 田仲一成氏は、儺舞から儺戯(郷儺、堂儺)への展開に関して、仮面が衰退すれば物語性が増すことを指摘しているが(24)、小屯関索戯の場合、あくまでも神霊のよりしろとしての仮面を重視したために、歌唱や演技の上で制約を受け、三国志の物語があまりふくらんでいかなかったのであろう。その結果、一部では儺舞の古態を失っているところもあるが、素朴な三国戯のプロトタイプをある程度保存できたのだと考えられる。この素朴な三国志物語の中には、従来小説『三国演義』ではあまり活躍しない人物も含まれており、三国の物語や小説の形成史研究の重要な検討課題となるであろう(25)
  また小屯村の村人は南京から来た屯軍の末裔であることを意識しているようであるが、最近の研究で、貴州平?県や安順市で「地戯」を伝承する「屯堡人」が、従来言われていたように明初の移住以来定住しているのではなく、「屯軍や屯民など様々な来歴をもち、出身地の異なる人々が貴州で集まり、離脱や流入など境界に顕著な流動性を呈しながら、歴史的に形成された集団」であり、民国以降に漢族としての意識が強まったことが指摘されている(26)。 小屯の集団形成の過程については不明な点も多く、「屯堡人」の事例がそのまま小屯村にあてはまるかどうかはわからない。ただ、一つ言えるのは、安順の屯堡人が自分たちの集落あるいは宗族の結束を維持していくために「地戯」を利用し、「地戯」を持たない、あるいはその伝統を失ってしまった人々を見下げていたように、小屯の人間が自分たちの出自を江南にもとめ続ける限り、他の村落と一線を画すための装置、関索戯はなくなることはないであろう。
 
 
【注】
1.関索戯が再発見され、マスメディアによって紹介されたのは、1959年で あるが(雲南『小戯報』1959年2月7日版に掲載された澄江の劇作家、李 興唐、郭偉然氏による短訊「我省又一地方劇種−関索戯在発掘整理中」,『関 索戯志』に再録)、文化大革命により関索戯の演出は封印されてしまう。 澄江県文化局、文化館の劉体操、楊応康、洪加智氏らの招きで戯曲・演劇 研究者による本格的な調査が始まり、論考が発表されるようになったのは 1979年からである。この経緯については、『関索戯志』pp13「大事年表」 が詳しい。「関索」が誰かということについては、明清時代から議論と考 証があり、近人では小川環樹「関索の伝説そのほか」(岩波文庫版『三国 志』第八冊附録,1964)、周紹良「関索考」(『学林漫録』1981-3)、羅錦堂 「関羽与関索」(『馮平山図書館金禧紀念論文集』香港大学馮平山図書館編, 1982)や、『成化説唱詞話』の『花関索伝』とあわせて関索について論じ ている、柳存仁「伍伯与花関索」(『清華学報』16 ,1984-12)、氷上正「“花 関索伝”研究ノート」(『無名』4,1984)、金文京・井上泰山他編『花関 索伝の研究』汲古書院,1989)など優れた研究がある。関索の正体につい て、薛若鄰氏によればだいたい五通りの説があるようであるが、長くなる のでここでは繰り返さない。関索戯にスポットをあてた研究としては、劉 体超等「関索戯」(『雲南戯曲曲芸概況』,雲南人民出版社,1981,『関索戯 志』に再録)、楊明「澂江関索戯考」(『雲南劇目選輯』1983-2,『関索戯志』 に再録)、薛若鄰「関索戯与関索」(『戯曲研究』12,1984-6,『関索戯志』 に再録)、王兆乾「関索和関索戯」(『雲南戯劇』,1985-2,『関索戯志』に 再録)、顧峰「一出独特而稀有的儺戯−関索戯」『戯劇芸術』3,1985)、薛 若鄰「関索的由来和関索戯的縁起」(『雲南戯劇』,1990-4,『関索戯志』に 再録)、顧峰「三訪関索戯」(『古?芸術新探索』,雲南教育出版社,1992, 原載誌未詳)、劉体操「関索戯−軍儺家族的重要成員」(『雲南戯劇』,1992 -4,『雲南儺戯儺文化論集』に再録)、楊応康「関索戯的祭祀活動与演出習 俗」(『貴州民族学院学報』,1992-3,『雲南儺戯儺文化論集』に再録)、劉 体操「関索戯与儺文化淺析」(『雲南戯劇』,1991-6,『雲南儺戯儺文化論集』 に再録)等の論文がある。また関索戯の専著としては『関索戯志』(中国 戯曲志雲南巻編輯部編,文化芸術出版社,1992)がある他、『澄江概覧』(楊 応康著,雲南民族出版社,1999)所載の「関索戯実録」と脚本、そして『雲 南儺戯儺文化論集』(雲南省民族芸術研究所・玉渓地区文化局編,雲南人 民出版社, 1994)も多数の関索戯に関する論考を載せており、本稿執筆の 参考にさせていただいた。
2.この章については、注1前掲『関索戯志』pp1-20「總述」、『澄江概覧』 pp91-95「関索戯実録」の「小屯村的基本状況、信仰及風俗習慣」を参照。 また、『雲南集鎮』(牛鴻斌主編,雲南民族出版社,2001)p130では「陽 宗鎮」を次のように説明している。「民国に置かれる。昔、「強宗」という 部族がここにいて、「強宗」と呼ばれていたのがなまって今の名前となっ た。これがすなわち現在の雲南澄江県城の北にある陽宗鎮であり、県城か らは十六キロ離れている。かつては澄江県に属していたが、のちに廃され て、1984年にまた置かれた。陽宗海の南岸に位置している。民国時、郷道 が通っていた。今の道路は、北は呈貢県に通じ、南は県城に至る。鎮は長 方形をしている。1984年時の人口は2730人、そのうち農業に従事していな い者は163人である。1983年には毎週日曜日に市がたち、5000人が市に集 まった。特産は金線魚、青魚、鮮藕である。古跡としては、龍泉寺、普照 寺などがある」
3.注1前掲『花関索伝の研究』pp68-70参照。
4.?正治編著『漢族移民入?史話−南京柳樹湾高石坎』(雲南大学出版社, 1998)pp157-162は、雲南では南京柳樹湾を祖籍とする者が非常に多いが、 南京柳樹湾はたかだか一平方キロしかない小さい土地にすぎず、また明代 洪武年間にそこには監獄があったことから、中国各地の人間が南京柳樹湾 を経由して南征、あるいは移民として雲南に入ったことを示すものであろ うと指摘する。
5.注1前掲顧書p124参照。村人の言い伝えについては、『関索戯志』pp81 -81「軼聞伝説」、『澄江概覧』pp95-96にも記述がある。
6.民国6年抄『路南県志』には関索戯らしき儺戯の上演記録や関索嶺、関 索廟についての記述も見えない。ただ、澄江県内(龍街鎮)やもと澄江府 に属した江川、玉溪、宜良などの諸県には関索嶺、関索廟がいくつか見ら れる。
7.注1前掲薛論文[1984]参照。
8.注1前掲顧論文[1985]参照。
9.注1前掲王論文[1985]参照。
10.上田望「清代英雄伝奇小説成立の背景−貴州安順地戯よりの展望」(『日 本中国学会報』第46集,1994)p159参照。
11.『関索戯志』に掲載されている祭壇の写真を見ると、かつては五顕霊官 像はなく薬王の赤い神位が壁にかかっているだけであり、神位の方が重視 される。
12.これは老芸人?向庚の世代が念じていたものであるが、?向庚の息子、 ?自文の代になると、領牲詞の内容にもすでに変化がみられる。過去には 三国の人物を称揚していたのが、五穀豊穣、人口清吉、六畜興旺を祈るめ でたい言葉に変わるなど、祭祀の時の実情にあわせて変化する部分がある。 『澄江概覧』pp100-102参照。
13.仮面は貴州産の白い棉紙を使用し、何層にも重ねて紙を糊で貼って作成 され、生、旦、浄の三タイプがある。彩色は皮黄戯の三国人物臉譜とだい たい同じようである(写真10、11)。田仲一成氏に拠れば、仮面は木製彫 刻のものが最も古く、竹製方形のものがこれに次ぎ、紙製方形のものが最 も新しい。田仲一成『中国巫系演劇研究』p97参照。また、地戯のような 額に載せる形式の仮面ではなく、頭にすっぽりとかぶる仮面であるが、額 の部分に円形の鏡がついている点は地戯と同じである。『澄江概覧』pp114 -115を見ると、衣装や武器が役柄によって細かく決まっていることがわか る。なお、今回見た仮面と衣装は『関索戯志』掲載写真の仮面・衣装から 若干様変わりしている。
14.『関索戯志』p20所載「関索戯流布図」にこの時の李本?氏とのインタビ ュー(写真12)で知り得た村の名前を楊応康氏が書き込んでくれたのが「陽 宗関索戯巡遊路綫図」(図1)である。今回の発表に際し、図の掲載をご 快諾くださった楊応康氏に感謝を申し上げる。田仲一成氏は更に問答を通 じこれらの村が小屯村と通婚関係にあることを明らかにされている。
15.「土炮」や「?村」のような「各戸逐疫」は、貴州安順地区でもよく見 られる。
16.関索戯は世襲制をとっているため、劇団員の年齢構成をみると非常にバ ランスがとれている。『澄江概覧』p123参照。
17.関索戯の「点将」については、『関索戯志』p22「点将」及びp77「“分封” 和“使差”」、『澄江概覧』pp118-122に詳しい紹介があるが、今回見た「点 将」は『関索戯志』よりも『澄江概覧』の記述に近いものであった。
18.王秋桂、沈福馨編『貴州安順地戯調査報告集』(台北施合鄭民俗文化基 金會, 1994)p136参照。安順地戯についてはこのほかにも『安順地戯論 文集』(沈福馨他編,文化芸術出版社,1990)、田仲一成編『東亜農村祭祀 戯劇比較研究』(東京大学東洋文化研究所,1992)に多くの先行研究が載 せられており参考になる。この「五方兵馬」は「点将」とセットになって、 江西省萍郷県など中国各地の巫系演劇にその存在が報告されている。注13 前掲田仲書参照。
19.注18前掲書p323「貴州省安順市九渓村小堡地戯考察」「九武打套路」参 照。また、p330に隊形動作の図解、p405に「武打套路」の写真つき説明が ある。
20.現在、これらの抄本の脚本は玉渓地区の文化局が保管しているとのこと である(楊応康氏談)。
21.注1前掲劉論文[1992]p203参照。 
22.注1前掲『関索戯志』pp37-54「音楽」参照。
23.高倫『貴州地戯簡史』(貴州人民出版社,1985)p80、李怡『現代四川 文学的巴蜀文化闡釋』(湖南教育出版社 1995)pp79-91「火辣辣的川妹子」 参照。
24.注13前掲田仲書pp774-776参照。
25.インタビューで質問してみたが、小屯村の人間も百花公主が誰なのか知 らなかった。これは関索戯の長い伝承の過程で忘れ去られたのか、それと も余所の土地から関索戯が持ち込まれた時、その演目の背景にある物語が 移植されなかったかである。
26.塚田誠之「民族集団はどのように作られるのか……「屯堡人」は漢族か?」 (可児弘明他編著『民族で読む中国』,朝日新聞社, 1998)参照。
 
[付記]今回の調査に際し、澄江県文化局の楊応康氏、雲南省博物館館長(現雲南大学教授)李昆声氏よりあらゆる面でご支援をいただいた。小屯に入り、短い限られた時間で充実した調査ができたのは偏にお二方の尽力のお陰である。この場を借りて感謝の微意を表したい。